第779回「長崎県元知事のお別れ会」

 深谷隆司の言いたい放題第779回

 「長崎県元知事のお別れ会」

 前回、「さよならだけが人生だ」と書いたが、10月22日、今度は長崎県元知事故高田勇氏の「県民お別れの会」に、追悼の辞を述べるために一泊だけの忙しい旅をした。


 平成3年、雲仙普賢岳で突然噴火が起こり、大規模な火砕流や土石流が発生した。41人の命を飲み込み、農地や住宅を押しつぶし、平和で静かな町を悲劇の場所に変えた。この大災害は連日テレビなどで報道され、大きな話題を集めた。

 平成7年には阪神淡路の大災害が起こり犠牲者は6,434人、戦後発生した地震としては東日本大震災に次ぐ大きな被害規模であった。

 この災害によって、長崎の大災害はともすると忘れがちになっていた。

 この頃、私は自治大臣に就任して復旧復興に全力を挙げていたが、当時、長崎県知事であった高田氏が、県議会代表と共に何度も大臣室に陳情に来られ、「長崎は未だ復興半ばで住民は苦しんでいる、なんとか救って欲しい」と訴えた。

 災害対策基金540億円で復興に当たってきたがが、金利も下がり、期限も切れるので1000億円の基金増額と期限の延長をしてもらいたいというのである。

 自治省の幹部達は200億円増額で我慢してもらおうと主張したが、私はこういう時こそ、希望に沿う答えを出すのが政治や行政だと考え、最後は大臣の決断で全額回答を決めた。

 12月27日、私は現地を訪れ、「要求通りにします」と報告すると、知事は私の肩に抱きつくようにして涙をこぼした。随行の職員も私も感涙したものだ。

 昨年5月、あの時の陳情者の1人、小林克敏県議会議員の子息の結婚式の仲人を私は務めた。

 その時、高田元知事が「大臣にお礼だけでも申し上げたい」と、病を押して車椅子で駆けつけてくれたのだ。あれから21年も経っているのに、しかも公の事なのに、である。なんと素晴らしい人物かと感動した。


 9月8日、ついに92歳で逝去され、そのお別れ会がホテルニュー長崎で行われたのだ。会場には1500人もの県民が参列した。中村知事の言葉の後、追憶「在りし日を偲んで」と題するスクリーン映像があったが、なんとその中に雲仙普賢岳を視察し、満額回答した私の当時の姿が映し出されていた。

 翌日の新聞テレビで、この日の報道が流れたが、元自治大臣としての私の言葉が載せられていた。


 精一杯働いた往時のことが、今も残され感謝されている。悲しい別れではあったが、そこに高田元知事の思いが込められているようで嬉しかった。



第778回「さよならだけが人生だ」

 深谷隆司の言いたい放題第778回

 「さよならだけが人生だ」

 唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」の井伏鱒二妙訳に、「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」というのがある。

 実際人生に別れはつきものだが、私の周りでこうも別れが続くと、本当に人生ははかなくて寂しいと思わずにはいられない。だからこそ、この時を大事にしようとは思うのだが・・・。

 前号で大阪の盟友松本隆三氏の逝去について書いたばかり、今日は長崎県の高田勇前知事のお別れ会だ。

 一昨日(10月20日)、敬愛してやまない芦田淳先生が亡くなった。


 芦田先生は皇太子妃美智子様の専任デザイナーを10年務めたことで知られた世界的なファッションデザイナーである。

 家内が先生のプレタポルテの服を好んでいた事から、家族ぐるみの交流が始まったのだが、以来、50年近くになる。その頃、私は東京都議会議員であった。


 昭和47年、私が無所属で衆議院議員選挙に初出馬した時、地元田中小学校講堂での超満員の演説会に、娘多恵さん(現在立派な後継者、ファッションデザイナー)と訪れ、誰にも気づかれぬようにして応援してくれた。当選するやシャンパンを持って自宅に飛び込んで来て男泣きした。


 私がフランスに行った時、現地に店舗を持つご夫妻が同行してくれて、家内と共に4人で想い出に残るパリの日々を楽しんだ。

 京都にもよく行った。私が国会の武闘派として少しばかり話題になった頃、どちらが多く振り返えられるかと競い合ったりしたこともある。今思えば大人気ない話である。

 何故か会食する時、私と口論し始めるのが常で、お互いの女房から「まるで子供みたいで・・・」と笑われたものだった。

 私が選挙に敗れた時代も、その応援ぶりはいささかも変らなかった。逆に困ったことがあると5歳下の私に何くれとなく相談してくれた。

 バブル時代、莫大な資金を用意してゴルフ場を作ろうとしたことがあった。周囲から依頼されて、ほとんどまとまりかけた話を、私が断固辞めるよう説き伏せた。後日、「あの時止められなかったら、全てを失ったであろう」と最後まで感謝された。


 病魔が襲い、近年、病院暮らしも多かった。完全看護の体制の整ったご自宅に戻ったが、奥様に何度も「深谷に会いたい」とせがみ、その度に駆けつけた。

 昨日、最後のお別れに行った。もう、このお顔を見ることができない。脳裏に焼き付けるように、先生の顔を見つめた。

 さよならだけが人生だ・・・。 あまりに悲しくて涙が止まらなかった。 



第777回「会うは別れの始め」

 深谷隆司の言いたい放題第777回

 「会うは別れの始め」

 盟友の松本隆三さんが10月14日亡くなった。80歳である。

15日の通夜は、温故知新塾の講義の日と重なり行けなかったが、翌日の告別式には家内と共に出かけた。朝9時過ぎに東京を出て大阪での告別式が終わるや、直ちにトンボ帰り、夜7時からの自民党政経塾の講義に間に合わせた。まさに強行軍であった。


 1983年、その頃付き合っていた大洋ホエールズの平松政次投手が念願の200勝を達成、私の家族一同で向島の料亭櫻茶ヤに祝いの席を設けた。その時、彼の大阪後援会長であった松本さんが同席され、それが縁で格別親しくなり、実に35年にわたる長い交流となった。

 松本さんは大阪で会社を営み、優良納税者会の会長を務め、私を何回か講演の為に呼んでくれた。恒例の大阪経済大学や関西大学に講義に行くと、いつも自ら車を運転して送り迎えしてくれ、講義にも必ず同席した。その度に講義に感動したと言い、生徒が居眠りでもしていると、学長に直接文句を言う人であった。

 律儀で頑固一徹な人だった。

よくご夫妻と京都で遊んだ。料理屋で気に食わないことがあると突然怒り出したりして周囲を困らせたが、私から見るといつも筋が通っていた。

 政治についても一言居士で、政治や政治家のありように大いに不満を持っていたが、私に関しては全て文句なし、どんな時でも最大の理解者、信奉者であった。

 私が大臣時代も、落選して苦境にあった時も少しも変わらず私に接してくれた。どんなに彼の存在で私の心が癒されたことか・・・、今思い出して涙が止まらない。


「会うが別れのはじめ」と言う。出会った人とは必ず別れが訪れる。特に私の場合、政治家ゆえに大変な数の人と出会い、別れ、見送らなければならなかった。

 出会いは別れをもたらす、人の世の無常なのである。別れの悲しさ、愛のはかなさ、それは出会う喜びがあったからこそで、だから別れが訪れるまでの時間を大切にしなければならないと改めて思う。


 昔、私の自治大臣時代、長崎雲仙普賢岳の大災害復旧復興のために、1千億円の基金を大臣の決断で決めたことがある。その時、何度も陳情に来られたのが高田知事であった。9月8日に92歳で亡くなられたが、お別れ会が今月22日にある。 

 県からの要請で私はお別れの言葉を述べるために長崎に行く。

又、「会うが別れ」の寂しさをかみしめねばならない・・・。