第668回「浅草三社祭」

 深谷隆司の言いたい放題第668回

 「浅草三社祭」


514日、15日、浅草は三社祭一色でにぎわった。雷門の自宅は倅や娘の友人達で満員、次々と繰り出しては神輿を担いで大騒ぎであった。

三社祭は44町会で構成され、それぞれに御酒所ができる。その全てに顔を出して挨拶するのが議員現職中の恒例であった。

はるか昔は軽自動車にお酒を積み込んで、各所にお酒を2本づつ届けたものだから、お金もかかって大仕事であった。

選挙に敗れて何年か浪人して、それでも元気な姿を見せようと神輿を担ぐと、周囲からやんやの喝采が上がり、「さすが下町の深谷」と、それが再起のきっかけになったりもした。

今年は自宅前で本社神輿の引継ぎが行われたが、千人を越える若者で大通りは埋まった。もう担ぐことは出来ないが、懐かしいあれこれを思い浮かべて感慨無量であった。


15日は、浅草花柳界の「組踊りを観賞する会」で、料亭「瓢庵」に、松村ご夫妻を誘って4人で顔を出した。

芸者衆が数人ずつ組になって、得意の出し物を作って各料亭を回って宴席で披露する。古くから伝わる粋な催しである。

久しぶりで、浦島太郎のような心地であったが、女将さんが喜んで、昔のように是非共乾杯の挨拶をして欲しいと乞われた。一言薀蓄をかたむけてから乾杯の音頭をとった。


推古天皇の時代、1350年も前だが、二人の漁師が隅田川で漁をしている時、観音像を釣り上げた。地元の文化人が如何に立派な観音様かと、自ら剃髪して自宅を寺とし崇敬した。(年代は少し怪しいが)

後にこの3人を神として祀る浅草神社が建立され、浅草寺と共に「観音祭」あるいは「浅草祭」と称して盛大な祭りが行われるようになった。明治になって神仏分離令が出されてからは、浅草神社が単独で行うようになり、これが今の「三社祭」なのである。


既にはるか前、柳橋料亭街が消えたが、浅草の花柳界も芸者衆がめっきり減った。組踊りもわずか3組、それでも日ごろ磨いている踊りはしっかりしていて見応えがあった。もっと多くの人に見せたいものだ。

一組は「太鼓もち」と言われる男衆の「幇間連」で、達者な芸が披露された。

私がまだ若い頃、悠玄帝玉介というテレビラジオで有名な幇間がいた。お座敷芸の第一人者で歌舞伎の声色などを得意にしていた。懐かしいそんな芸がまだ生きているのだ。今では数人しかいない幇間、「生きた化石」とからかうと、「世界で数人しか存在していません」と、得意になっていた。


せっかくだからと、浅草界隈をそぞろ歩き、浅草寺近くの「アリゾナ」にも立ち寄った。ここは永井荷風が好んで寄った洋食店、長年の私の応援者で、夫婦が大喜びで迎えてくれた。

浅草には何年経っても変わらぬ風情が残っている。着流しに半纏姿の私、下町ふるさとの浅草は、そんな私を優しくつつんでくれる。

今年も素敵な三社祭であった。



第667回「ゴールデン・ウィーク」

 深谷隆司の言いたい放題第667回

 「ゴールデン・ウィーク」


家族全員集合で箱根の山小屋で過ごした。

2日は箱根プリンスホテル「なだ万」で夕食、箱根に来ると必ず寄るが、ここの渡邊支配人、尾中料理長(今度、倅が勤める電通の店に移動)の人柄がいいのが一つの理由だ。私についての情報をいつも把握していて、この頃、オールド・パーに凝っていることまで知っていて、黙って出してくれたが、さすがと感心したものだ。味も気分も最高だった。

3日は日本画家の中野先生ご一家、和泉区議夫婦、美容院の二人、それに新人高橋さんも含めてバーベキュー大会。いつものように材料も揃えて来て、焼き手は小田原の大工岡井さんである。この人がいないとバーベキューは始まらない。

熊本・大分で苦労されている方々、亡くなった方への黙祷を捧げてスタート、幸い上天気に恵まれて大賑わいであった。

4日は箱根神社の宮司夫妻を招いて「アルベルゴ・バンブー」でイタリア料理を楽しむ。仙石原の小道を入ったこの店には昔よく行ったもので、当時馴染みの支配人がいて、私が着くと、すかさず「ゴットファーザー」の曲を流してくれたものだった。白い洋館、まさに映画そのもののたたずまいである。

山西支配人の対応も、味も雰囲気も変わらず良かった。


実はこの早朝、NHKテレビのニュースで、盟友佐藤信二氏の訃報が流れて、哀しい思いをしたばかりである。彼は佐藤栄作元総理の次男で1974年の参議院選に初出馬、私は責任者の一人として先頭に立って支えた。後に彼は衆議院に移り運輸相、通産相をつとめた気骨ある政治家であった。

ある時、「深谷さん、音羽の田中角栄さんが、子分衆に逃げられ心を痛めている。あなたが行けば喜ぶから激励に行ってくれないか」と連絡してきた。急いで田中邸に伺うと、上機嫌で迎え入れてくれ、様々な話で尽きなかった。

帰る時になってになって、「お帰りだぞ」と秘書に声をかけたが返事がない、烈火のごとく怒って秘書を怒鳴る田中先生の剣幕に、私の方がびっくりしたが、なんとその数日後に脳梗塞で倒れた。

今、石原慎太郎氏の著書「天才」がベストセラーだが、私にとっても沢山の想い出がある。いずれ機会があったら語りたい。

佐藤元総理が亡くなった時、私は遺骨を抱いて寛子夫人と共に築地本願寺に赴いた。その折に信二氏と共に記者会見したが、なんと、その時の場面がそのままNHK テレビのニュースで流れていた。あの頃、私も若かった・・・、感慨無量の思いであった。4歳上の84歳、とても寂しい。


5日、早めに箱根を出て帰路へ、連休の中間とあって、東名高速は流れがいい。倅隆介、嫁小百合の運転で2台の車に分乗し、ほぼ2時間半で帰宅、夜は又全員で近所の「味の一番」中華料理屋で賑やかであった。特に5人の孫がたまらなく可愛い。家族に囲まれることが最高の至福の時である。


明日からは、松村先生から依頼の150号の虎の絵に取り掛かる。同時に自民党政経塾、温故知新塾の講義文の作成も始める。パソコンを駆使しての作業は少ししんどいが、気がつくと何時も数時間が経ってしまう。

これからの日程を見ると連日会合が予定され、特に夜は満杯だ。いずれも愉快な人たちとの集まりばかりで楽しみである。毎日を大事に精一杯生きて行こうと、改めて思っている。



第666回「想い出」

 深谷隆司の言いたい放題第666回

 「想い出」


422日、浅草ビューホテルで「エクスプレス10周年記念祝賀会」が開かれた。浅草西地区商店街協議会の主催だが、自民党政経塾塾生でもある寺嶋君から、是非来て欲しいとの再三の要請があり私も出席した。

秋葉原からつくばに至るこの路線が開通したのは平成17年のことだが、この開通式に私はテープカットし、時の小泉総理と試乗して話題を集めたものである。

この路線を実現しようとの機運が生まれたのは1980年代のことで、茨城の葉梨信行代議士(当時)から私に声がかかった。当時は「常磐新線」と名づけたが、莫大な費用もかかるし、用地買収も含めて実現は無理といわれたが、御徒町、浅草を通るから地元に役立つと、まだ40代の私は張り切って運動したものである。

それでも話は進んで、およそ9400億円かけて実現したのである。閑古鳥が鳴くとマスコミは報じたが、なんと初年度から15万人の乗降客を集め、5年も経たずに黒字路線となった。現在は30万人を越える。

当初、浅草の客は3割増えたと言われたが、いまやスカイツリーも含めて浅草の賑わいは大変なものである。

服部区長を始め大勢の出席者から、「深谷先生の功績」と賛辞されたが、この会がなかったら、そんな何十年も前のことは忘れ去られていたに違いない。色々な仕事を残したが、政治家の仕事は10年も経つと忘却の彼方となる。わびしいが仕方のないことではあるのだ。


23日、阿部勲氏のご子息直樹夫婦の結婚式に家内と出席した。帝国ホテルの会場には九重親方や友人の桑山氏など200人を越える客で盛況であった。 

冒頭、私が主賓の挨拶に立ったが、実は祖父が友人で、その関係で30年前、私はご両親の仲人を勤めたのである。

あの頃は仲人をたてるのが普通で、私はなんと130組以上の仲人を勤めている。

思わず若かった時代のあれこれを走馬灯のように思い返していた。

光陰矢のごとしというが本当に年月の流れは速い。80年も生きると、あれやこれや想い出は尽きない。

後どのくらい生きるか分からないが、精々元気で、次々と新しい思い出を作っていきたいとものだと密かに考えている。

近頃、家内の影響でオールド・パーにはまっている。創始者のトーマス・パーは152歳まで生きたという。あやかりたいもだと念じつつ杯を重ねている。