第766回「心痛めて、祈る」

 深谷隆司の言いたい放題第766回

 「心痛めて、祈る」

 西日本の各地を観測史上1位といわれる大雨が襲った。数十年に1度の最大の被害の危険が迫った時に発表する「特別警報」が11府県に出された。

 連日悲惨な状況が報道されているが、今朝、89人と発表された死者が昼には97人となり、行方不明者53人と増え続けている。

 記録的な豪雨で崖が崩れ、道路がふさがり、氾濫した川が橋を流し、洪水が家々を崩壊させた。電気、水道が止まり、普通の生活が出来なくなり、途方にくれる人々の姿が映し出されるたびに、やり場のない思いで胸が痛んだ。


 災害といえば平成7年(1995年)1月の阪神淡路大震災のことを思い出す。あの時は未曾有の大地震で6300人の死者を出した。

 当時、私は予算委員会筆頭理事、又、創設されたばかりの与党院内総務会初代座長であった。お役目柄、直ちに現地に赴き、ヘリコプターで鳴門海峡を越えて神戸に入りした。この世とも思えぬ地獄絵を見るような瓦礫の中を6時間歩き続けた。

 しかもその年、私は自治大臣兼国家公安委員長に就任、なんと災害復興担当大臣として現地の再生のために心血注ぐ立場となった。再び現地を訪ねて「消防・防災1兆円構想」を発表し、あわせて全国の消防機関がいざという時相互に援助しあい、消防活動や人命救助活動が出来るようなシステム「緊急消防援助隊」を作りあげた。

 一方、「長崎雲仙普賢岳の大災害の復旧が遅れている、何とかして欲しい」との度重なる陳情も続いていた。

 災害基金として530億円が用意され、その金利を活用して復興に当たって来たが平成8年に期限が切れる。対策基金を1千億円にし、更に延長して欲しいというのが高田知事らの要望であった。

 私は要望通りに応えようと主張したが、当初、役所の幹部は違った思いであった。しかし、大臣の覚悟が真剣であると判断すると、そこはエリート達、その方向に向けて必死に努力してくれる。ついに要望通りの答えを出し、暮れの押し詰まった12月27日、現地に赴き直接発表したものだ。


 自身の命の危険にさらされながら、災害の現場で必死に頑張る自衛隊、警察、消防、地元関係者の努力には頭が下がる思いである。

 安倍総理を中心に、政府は各地の状況を集め緊急対策に全力で取り組んでいる。今こそ政治の力を存分に発揮させる時なのだ。

 一刻も早く、苦しんでおられる方たちを救って欲しい。不幸な状況に心を痛めつつ、ひたすら祈りをこめて願っている。


第765回「夢茫茫」

 深谷隆司の言いたい放題第765回

 「夢茫茫」

 毎日、色々なことがあり過ぎて、こうした状態を茫茫(とりとめもないさま)と表現したらいいか・・・。

 私は27歳の時、台東区議に初当選した。2年後、都議会で不祥事が起こり解散となった。しかし、不祥事の張本人たちが平気な顔で又都議に出馬するという。義憤に駆られた私は区議を辞任し、無謀にも都議選に挑戦、260票差で次点に泣いた。

 学習塾を開いて、乳飲み子を背負った家内と共に塾の子供達を教えた。一方で政治家としての再起を期して努力を続け、その頃からすばらしい応援者が続々と増えていった。

 都議会から更に国会へ、それは険しい道のりであったが、生き甲斐でもあった。5つの大臣、総務会長、予算委員長など要職を歴任し、引退後は(勲一等)旭日大綬章の栄にも浴した。人生をかけて国の為に尽くしたと自負している。

 年月の流れは速く、私もまもなく83歳になろうとしているが、その間、多くの支援者がこの世を去った。


 6月28日、張替静さんが97歳で亡くなった。早世したご主人は私を支えてくれた恩人である。私は仲人も務めたが、彼らの母親への看護は見事であった。

 ご遺族の依頼で葬儀委員長を引き受けることとなった。ところが7月3日通夜の夜は自民党政経塾の私の講義の日と重なった。困り抜いていたが、なんとか義理の息子小田全宏君が代役を引き受けてくれ、ようやく全ての席に出られることとなり、ほっとしたところである。出会いは嬉しいが別れは辛い。


 19日、日本ジュエリー協会(中川千秋会長)の30周年大会が上野精養軒で開かれ、私は主賓で挨拶に立った。私が都議選で破れた頃、当時の業界の中心であった故中川三好氏等が訪ねてきて「顧問になってくれ」と言う。浪人中だからと遠慮したら、「あなたは必ず都議になる、ひょっとすると国会議員になるかも・・・、だから今のうちに頼むのです」。以来、50年余ジュエリー協会と縁をもち、政木喜三郎氏、桑山洋征氏、長堀守弘氏など歴代会長が私の後援会長であった。ご挨拶では、胸を熱くしながらそんな想い出を語った。


 24日、石浜2丁目町会が発足70周年祝賀会をビューホテルで催した。私が中学生の時代、まだ敗戦から数年後で焼け野原が残る頃、ボーイスカウト活動で通った町である。区議時代から町を挙げて応援、町会事務所は私の最初の演説会場となった。後に依頼されて「夢を求めて生きることの楽しさよ」と揮毫したが、今も町会事務所に飾られている。なんと当日の「式次第」に私の字がそのまま載っているではないか。

 加藤孝平会長は熱心な応援者で、彼の店「寶山堂」の前は街頭演説恒例の場所となった。私はそこで100回以上も獅子吼し、辻、松島両代議士、服部区長、和泉前都議、石塚、寺井区議など、私の後輩達もそこで演説して当選したものである。


 夢茫茫・・・である。





第764回「超満員の政経塾」

 深谷隆司の言いたい放題第764回

 「超満員の政経塾」

 Tokyo自民党政経塾は13年目を迎え、5月5日に開講した。

 毎年100人の定員のところ常に180人以上の塾生が通って盛況だったが、なんと今年は230人を越える超満員となった。来年の地方選挙に向けて、自民党公認になる新人候補者は塾に通うことが必須とされているから、これから更に増えることになる。

 党本部の一番大きな部屋を使っているが、入りきれないので縦に使うことになったが、それでもぎっしりだ。

 嬉しくて私も、塾長代行の小田全宏君も講義に思わず熱が入る。

 第一回は愛国心を説き、6月19日の専門コースでは、私自身、どんな歩みで政治家になったか、折々の背景になる政治情勢も含めて語った。

 戦争体験や、終戦後の生々しい日本の状況など、じかに語れる人は、もうだんだん居なくなった。

 私は稀少な「語り部」、これからも過ぎ去った時代のあれこれを若い人達に語り伝えていかなければならない。


 3年目になる「温故知新塾」は18日定例の講義を行なったが、日本の存亡につながりかねない「米朝会談の実体」を詳細語った。

 こんな危機的状況の中、国会は相変わらず「モリカケ問題」で不毛の議論を続けている。国民は明らかに食傷気味なのに、一部マスコミも便乗して「安倍叩き」で終始しているように見える。1年以上かけて何か不正が見つかったわけでもない。「言った言わない」という小学生並みの議論だ。

 5月31日には野党4党首による「党首討論」が1年半ぶりに行われたが、立憲民主党枝野代表も共産党の志位委員長もモリカケ問題だった。


 党首討論の正式名は「国家基本政策委員会合同審査会」といい、平成17年(2005年)11月からは私も委員長をつとめた。

 基本ルールは文字通り「国家の基本政策に関わる事項」を扱うと定めていて、本来の目的は党首らが政策や見解を掲げ、国民の前で「政権担当能力を競い合う」議論をしなければならないのだ。だから普通の委員会と違い、首相も逆質問が出来るようになっている。

 まさに安全保障問題など今日の喫緊のテーマが中心でなければならないのに、そんなことは意に介さぬ姿勢に、私は怒りさえ覚えた。


 余談だが、1999年11月の第146国会で党首討論が始めて行われた時、登壇したのは小渕恵三総理、民主党鳩山由紀夫氏、共産党の不破哲三氏、社会党の土井たか子氏であった。

 その時の鳩山氏の質問冒頭は「今朝自分は温かいピザを食べたが、総理はなにを食べましたか」という馬鹿馬鹿しいものであった。

 総理は「いつものように日本食です。オルブライト国務長官は冷めたピザも美味しいと言ってました」と答えた。

 早速、ニューヨークタイムスは小渕総理を「冷めたピザ」と揶揄した。

 日本ではなぜか「ピザおじさん」とうけて、小渕総理も記者団に温かいピザをユーモアで出しり、米誌の表紙にもピザを持って登場してりしたものだ。

 竹下総理の官房長官として「平成」を発表、「平成おじさん」と親しまれたこともあったが、突然脳梗塞で亡くなった。私の通産大臣時代のことで、悲しい想い出の一つとして鮮明に覚えている。


 やっぱり私は生き証人か。これからも元気なかぎり「語り部」として若い人達に、ありのままを伝え、現状を憂いながら獅子吼していかねばなるまいと改めて思うのであった。