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第241号 「年金問題での不愉快な投書」

深谷隆司の言いたい放題 第241号
「年金問題での不愉快な投書」

 朝日新聞の投書欄に、67歳の社会福祉士と称する人の意見が載っていたが、何とも不愉快な内容であった。
 80歳の高額年金削減に賛成として「一般に年齢が高くなるにつれて支出も少なくなり、生活にさほど多くの資金を必要としなくなるものです。結局、年金が高齢者の預金となって社会に循環しなくなるのは問題です」といかにもしたり顔で書いていた。
 一体、高額年金と言うが、食べて暮らしてなお預金までするほど高額だと思っているのだろうか。
 しかも、なお続けて「親の年金をあてにして子が就職しないケースもありますし、親の死亡を隠して不正に年金を受給して生活する不心得者まで出ています」と書いている。ダメな子は確かにいるが、それは年金とは別の話、まして、不正受給者は犯罪行為、これを放置してきた行政の怠慢をこそ批判すべきで、ピントが狂っているとしか思えない。
 さらに「使って社会に還元しないような必要以上の金額を80歳以上の高齢者に支給することは、年金の目的からも問題です」と書いている。こうなると、この人は高齢者に憎しみでも抱いているのかと勘繰りたくなる。
 ご本人も67歳、もうあんたも高齢者なんだよ!
 こんな、愛の心の無い人が社会福祉士と言うのだから、日本の福祉は三流以下、まったくやりきれない話ではないか。

 早速11月4日の同投書欄で反論が出ていた。
 84歳の方だ。
 「あの意見に悲しい思いで反論する」として「高齢者は外出や衣食などの支出も減るのが一般的と言うが、認識不足も甚だしい。(中略)高齢なるがゆえに粗衣粗食でよいはずはない。(中略)今80歳以上の高齢者は戦時中は命の危険にさらされ、戦後は祖国復興のために献身してきた世代だ。今になって世代間の公平などと言われるのは情けない」
 更に、「国難の時だから痛みを分かち合うという気持ちは高齢者も十分に持っている。高額年金を削減するというなら、所得税の累進課税を強化して、高齢者も含めた高額所得者にもっと多くの税金を払ってもらうべきではないか。
 それをせずに年金の削減など非情にして暴論と言わざるを得ない」と喝破している。
 全く同感、さすが経験を積んだ高齢者と、思わず拍手したい心地であった。
 「あんたも後期高齢者でしょう」と言われそうだが、私の場合、自分ではまだ高齢者と思っていないので、つい若いつもりで、高齢者に同情するような口吻になってしまうところがあるようだ。

 一方、その前日、同じ投稿欄で「若者が働き高齢者孝行する」という27歳の女性の声が載っていた。
 この人は目下、研究と就活という楽ではない二重生活を送っている大学院生である。
 「私たち若者は自分の希望と能力にぴったりの職を得て、働いて税金や年金をたっぷり納め、今まで頑張って働いてこられた御尊老に年金で孝行申し上げたい。政府や企業は長年の仕事に耐えた高齢者に報いるシステムを構築するよう努めるべきだ。個人がそれぞれ望む未来を生きられるよう祈るばかりである。」と結んでいた。
 なんだか心が洗われたような気がした。最近、「御尊老」などと言う言葉などめったに聞いたことが無い。
 このような若い人たちが立派に働ける社会をつくらなければならない。政治の責任は大きいと改めて強く思った。

 新聞の声欄は、世相の動きをよく表している。時折目を通すことは大事なことだと思う。
 世の中にはいろんな人がいるから、腹が立ったり、慰められたり・・・。
 不思議なことに、それでバランスがとれているのかも知れぬ。

言いたい放題 第242号 「最低の北朝鮮サッカー」

「最低の北朝鮮サッカー」
スポーツは国境を越えて友好の絆に、と言うけれど、そんな生易しいものではないということを、まざまざと見せつけられた。
2014年ワールドカップアジア3次予選C組で、北朝鮮の異常な光景を目の当たりにして、衝撃を受けたのは私一人ではないと思う。
22年ぶりの対戦だが、いくらアウエー(敵地)とはいえ、こんな非常識な場面など考えられなかった。

日本からのサポーターはわずかに150人、日の丸の旗も、鳴り物も、横断幕の持ち込みまで北朝鮮側から禁じられ、しかも朝鮮人民内務軍の保安員に囲まれて、立ち上がると大声で制止され身動きも出来ない状況だった。
 一方の北朝鮮の応援は競技場を埋め尽くした5万人、赤旗や北朝鮮国旗がはためき、メガホンと太鼓の音で地鳴りのような声援(と言うより怒号)で、まるで気でも狂ったかと思われるほどの激しさだった
 
一番許せないのは、日本の国歌が流れた時、ブーイングで音がかき消されたことだ。
日本の競技大会で、相手国の国歌が流される時は、みんな起立して必ず敬意を示してきた。それが国際社会の当然の礼儀だとわきまえている。
 しかし、彼等はそんな常識など持ち合わせてはいない。
おそらく北朝鮮から見れば日本は敵国扱い、なんでもかんでも、ひたすら「独裁者金正日様のおっしゃる通り」なのである。
国際的な競技大会に出場する北朝鮮選手たちは、勝てば英雄だが、負ければ強制労働までさせられる咎人になってしまうという。だから、自分の生死が掛かっているのだからたまらない。
「ハングリー精神」どころか「死ぬ気でやる」と言うのだから、その勢いはすさまじいものであった。

日本人を平気で拉致し(韓国人も)、いくら抗議しても一向に返す気配もない国、まさに北朝鮮は無法国家である。
驚いたことに、外国人席によど号ハイジャック事件で国際手配中の元赤軍派メンバー若林盛亮容疑者の姿もあった。日本の記者のインタビューまで受けている。
国際犯罪者を秘かに匿うどころか、平気でこれ見よがしに公の場に出し、当たり前のようにふるまわせている。これでは犯罪国家と言わざるを得ないではないか。

こんな国で、こんな選手たちと戦わなければならないザックジャッパンの選手たちは可哀そうだ。
だが、出るからには勝たなければならない。騒音と罵声の中でよく頑張ったと言いたいが、負けては何にもならないのだ。
どんな環境でも勝ち抜ける力をつけなければならない。この負けを教訓にして次に生かさなければいけないのだ

私はサッカーのことはほとんど知らない門外漢だ。しかし、今回の試合を見ると、控えの選手に経験を積ませようとの思いがあったように素人目にもわかる。
すでに第4戦で日本は最終予選進出を決めていたから、当然の対応だが、残念ながら、それらの選手は明らかに攻撃力が低く、主力との差が歴然としていたように思う。
これからの課題は控え選手の底上げと、どんな環境でも、たとえ厳しいアウエーでも、心負けしない気構えを作り上げることではないか

好き嫌いで相手の国を判断してはいけないが、やっぱり北朝鮮は好きになれないな・・・。
しかし、だからと言って一切無関係で行くことはできない。どんな国とも国際社会では、それなりに付き合っていくしかない。
大事なことは、誰かの言った、本物の「覚悟と器量」を国としていかに持つかと言うことではないか。


第243号 「外交で通用しない『言葉のごまかし』」

深谷隆司の言いたい放題 第243号
「外交で通用しない『言葉のごまかし』」

 国際会議に出席した折の、野田総理の自信の無さ気な表情はどうだろうか。
 折角、TPPの会議でオバマ大統領の隣に座りながら、一言もないどころか、話しかけられたらどうしようかと、ハラハラしている姿が見え見えで寂しい。
 英語が出来ないことに引け目を感じているのかもしれないが、そんなことを気にする必要はない。英語は一見、世界共通のものと思われているが、国によっては、むしろ嫌ってわざと使わないところさえある。
 正式な会議の時はむしろ優れた通訳を入れた方が間違いない。
 私の場合、いつも超ベテランの女性の通訳がいて、私が普通に日本語で話すのを見事に同時通訳してくれた。しまいには、直接話しているような錯覚に陥るような塩梅であった。
 個人的な対話が必要な時は、あらかじめ簡単な会話の中身を想定して準備したものだが、それで立派に通用して、色々な国の大臣達と親しくなったものである。
 一応、大学を出ているのだから、季節の挨拶や日常の話をするぐらいの英語は、あらかじめ用意しておけば、そんなに難しいことでは無い筈なのだ。
 私は、5つの大臣をやって、随分世界の会議、ひのき舞台に立ってきたが、根が厚かましいのか、それほど困ったという記憶はない。

 問題は、英語で語る前に、何を伝えようとしているのか、日本語で正しく内容を言えるのかということなのだ。もっと言えば、きちんとした中身を自身で持っているのかが何よりも肝要なのである。
 思想も哲学も、まして、確信のもてる政策も無しに、世界の舞台で国益を掛けて議論をすることなど、到底出来よう筈もないのである。

 野田総理の自信の無さは、そこから来ていると私は思う。
 本来ならTPP 参加表明をする以上、自身が所属する党内を説得し、まとめていなければならない。国会であらゆる情報を開示して、議論を尽くして、満場一致は無理だけれど、せめて大方のコンセンサスを作っていなければならない。
 ところが、民主党内の説得も党執行部に丸投げして、自分で少しも汗を流そうとしない。これではまとまるものもまとまらないし、まして野党が納得しないのは当然である。
 国内世論も、やや参加賛成派が多いとはいうものの、賛否両論で大騒ぎである。
 TPPのような仕組みに参加しようと思えば、それぞれの立場によってプラスとマイナスの両面がある。それを冷静に秤にかけて、やっぱり日本の国益にとって必要だと確信したら、堂々と国民に訴えていけばいい。
 そして何よりも大事なことは、マイナスの部分をどのようにして補うのか、具体的に提案し、説得していくことなのだ。そうした議論は今までほとんど皆無と言っていい状態ではなかったか。

 野田総理の一番悪い点は、いたずらに言葉でごまかそうとすることだ。
 総理は「交渉参加に向けて関係国との協議に入る」と言ったが、肝心の「基本方針(参加表明する)に基づく」という言葉は省かれている。反対派を刺激しないという狙いは目白だ。結局、何を言っているのか分からない。
 賛成派は「交渉参加」と受け止め、反対派は「これで歯止めが出来た」と喜んでいる。
 15日の参議院予算委員会で、自民党の山本一太氏が「鹿野農水大臣はどう受けと止めているか」と問うたのに対し、「参加しないということ」と答え、「内閣不一致だ」と責められていた。

 12日に行われたオバマ大統領とのハワイ会談でのやり取りでも、認識のずれがあって大問題になっている。
 オバマ大統領は「すべての物品やサービスを貿易自由化の交渉テーブルにのせるとの野田総理の発言を歓迎した」と発表した。しかし、日本側はそんなことは言っていないと反論したのである。
 野田総理は「重要品目に配慮しつつ、全ての品目やサービスを自由化の対象にする」と語ったのだが、「重要品目に配慮しつつ」は国内の反対派向け、後半がアメリカ向けと、玉虫色にしているのである。
 本来、TPPの原則は例外なき貿易自由化だし、オバマ大統領としては日本の前向きの姿勢をアピールしたかったのであろうが、いずれにしても国際社会では、日本的な言葉のごまかしは通用しないということなのである。

 国際社会は、日本の参加表明と受け止めて、TPPに対して新たな動きが出始めている。
 すなわち、カナダ、メキシコが参加の姿勢を示し、フィリピンやパプアニュギニアなども手を挙げそうだ。
 カナダ、メキシコが加わると、国民総生産で世界経済の40%に及ぶというのだから、巨大経済圏が出来上がることになる。
 オバマ大統領は、「アジア太平洋地域だけでなく、世界全体のモデルになり得る」と喜んでいる。
 日本に対する世界の評価がいかに高いかということだが、それだけに責任は重大である。
 むしろ日本が中心になって、新たなルールづくりをする最大のチャンスが訪れたということではないか。
 この際、二枚舌などと言われないように、しっかり前向きで対応しなければならない。

 問題は、日本に、いや野田総理にそれだけの外交的実行力と能力があるかという点だ。
 残念だが、それはとても無理な話で、ここに日本の悲劇があるといったら言い過ぎであろうか。

深谷隆司の言いたい放題 第244号 「楽しかった、自民党政経塾合宿」

深谷隆司の言いたい放題 第244号
「楽しかった、自民党政経塾合宿」

 11月19日、恒例のTOKYO自民党政経塾の合宿を、熱海後楽園ホテルで開催した。合宿も6回目を迎えたが、今回も130名余の塾生の参加で大盛況であった。
 このホテルをいつも使うのは、交通の便が良いことと、なによりも東京ドームの林会長が 私の後援会長だからである。
 昔、熱海は東京の奥座敷と言われ、各種団体の宴会や見本市などでよく使われ、私は都議会議員時代あたりから、月に数回は訪れたものだった。
 石原裕次郎が元気な頃、年末の忘年会は熱海で開かれた。いつも500人を超える大宴会で、石原プロの有名なスターが勢揃いし、彼はそれが終わるとハワイに行くというのが恒例であった。  
 今は、あの頃の名だたるホテルは軒並み消えて、かつての華やかさはすっかり影をひそめてしまっている。
 その中で唯一頑張っているのが、1200人収容の熱海後楽園ホテルなのだ。

 合宿初日は、昼から私の挨拶で始まり、5人の国会議員に講演をしてもらった。自民党が政権を得ていた時代は、講師には何人もの大臣が揃い賑やかだったが、野党になった今は勿論大臣はゼロで寂しい。
 そこで今回は特に新進気鋭の若手議員に参加してもらったのだが、比較的年代が近く、塾生にとってはかえって良かったかもしれない。
 一番バッターは、地元静岡で当選した参議院議員の岩井茂樹氏だ。彼はわが政経塾の3期生である。
 塾が発足して以来6年の歩みの中で、市長や区議会議員など地方議員は80人以上世に送り出してきたが、国会議員は彼が初めてである。
 最近の公募で、次期の衆議院議員候補者に現塾生2名が決まっている。これからは政経塾出身者の国政参加はきっと多くなっていくに違いない。
 2番手は東京4区の平将明代議士、彼は当塾に最初から参加協力している経済通の政治家である。「日本再生の処方箋」とのタイトルで滔々と語った。
 3番手は参議院比例区代表の一期生宇都隆史氏、元航空自衛官で、なんと現在37歳の青年である。
 私が国会議員になったのも37歳の時だっただけに感慨一入、自分にもこんな若い時代があったのだなと、過ぎ去った日々を走馬灯のように思い起こしていた。
 テーマは「日本の危機管理、国家の主権を考える」だが、身近な世代だけに塾生達の質問も活発であった。
 次に立ったのは佐藤ゆかり参議院議員。経済学博士、経済評論家であったから、「世界経済の行くえ、日本が生き残るには」と言うタイトルで、まさに得意分野、世界的に経済問題で混乱している時だけにタイムリーな講演となった。
 最後は、菅義偉代議士、党組織運動本部長だけに何とか党勢を回復させたいとの一念に燃えていた。ただ、相変わらず支持率が上がらない状況だけに、私から見ると苦渋に満ちていて、迫力が「いまいち」といった感じであった。

 夜7時からは、緊張から解放されての大宴会である。私は全テーブルを回って彼らと歓談、大いに痛飲した。食べ飲み語る、こうなったら私も若い連中に負けてはいられない。すっかり青年の気分になってピッチがあがった。

 翌早朝6時半、海岸の広場に集まってラジオ体操、前日は雨だったが、すっかりあがって快晴、オゾンをたっぷり含んださわやかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 私の指導で海に向かって発声練習をしたが、どんなに大声を出しても此処なら誰からの文句も出ない。都会で暮らす者にとって、まさに至福の時であった。

 翌日の午前中は、初の試みとしてグループディスカッションを行った。
 8班に分けて、「世界の中で日本は今後どうあるべきか」、「日本人にとっての日本は、どんな国であるべきか」、「実現に向けて、今、自分たちに出来ることは何か」について議論させ、それぞれの代表者に発表させるという形をとった。
 かなり漠然としたテーマだし、大きい課題だからどうかとは思ったが、今回はいわばデイスカッションの入り口、「自分の考えを持つこと」、「相手の思いを理解すること」、「内容をきちんと消化しまとめること」に重点を置こうと考えていた。

 1時間、侃々諤々の議論が続いて各グループとも盛り上がっていた。
 最後に、8人の代表を次々と壇上に立たせ、グループごとの「まとめ」を報告させたのだが、これは私が教えた「話し方教室」の実践でもあった。
 想像していた以上に発言者の内容、態度、マイクの使い方等、いずれの点でも立派であった。何よりも真剣で真面目だ。私は思わず胸が熱くなった。
 今の時代、どちらかというと軽佻浮薄で自分中心、世界や国家のことを真剣に考える人は少ない。しかも、若い人たちにその傾向が強く残念に思っていた。それだけに、彼らの姿が誇らしく感動的であった。

 わずか2日間と言う短い時間であったが、充実した合宿は終わった。
 今年の授業もこれですべて終了した。
 私は全員と握手を交わし、「頑張れよ」と声をかけ送り出した。
 「僕にとって政経塾は生き甲斐です」と言ってくれた人がいた。中には「研修指導員になることが目標です」と言う人もいた。4期連続皆勤賞の塾生に「研修指導員」という役を与え、全体のリーダーとして活躍してもらっている。
 「それが望みとは、スケールが小さいな」とからかったのだが、内心ではとても嬉しかった。なんとも可愛い連中ではないか。
 わが塾は、原則1年で卒業なのだが、何期も続けてくる人が多い。彼らにとって塾は生活の一部になっているようだ。
 私がそうなのだが、次第に別れづらくなっているのかもしれぬ。

 「なんと真面目でいい人たちが集まっているのだろうか、こんな若い素晴らしい連中が世の中に多く居たら、この国はもっとよくなるのに・・・」   
 第6回目の合宿の、私の率直な思いであった。

第245号 「合宿その後」

深谷隆司の言いたい放題 第245号
「合宿その後」

 TOKYO自民党政経塾の合宿が終わってから、何人かの塾生から感謝のメールや連絡がきた。
 何れも「素敵な時間を過ごせた」ということで、改めて合宿の成果を知らされて嬉しかった。
 今の時代、130人を超える大所帯の研修合宿など、経験したくても、まずないであろう。わが政経塾の6年間に及ぶ試みが、次第に実を結びつつあるようだ。

 そのメールの中から一通、掲載してみる。本人の承諾は得ていないが、受けとった私がいたく感動し、是非、他の人に伝えたいと思ったからである。


ーーーー本文を掲載(
原文を一部変更)ーーーー

 「東京自民党政経塾6期生のHといいます。初めてではありますが、今回の熱海合宿に参加させていただきました。
 多岐にわたる分野で多くの先生方から専門的な講義を受ける機会を設けていただき誠にありがとうございました。
 私はGグループの発表者として壇上に上がったのですが、これはおそらく一生忘れることのできない本当に貴重な経験をさせて頂いたと思っています。
 メモをして準備をして壇上に上がったのですが、いざその場に立つと頭の中がパアーっと真っ白になり何もかもが吹き飛んでしまいました。国旗に礼をするという、当然の事も出来ませんでした。
 普段、なかなかお話しする機会もなくおそらく面識も乏しいであろう深谷先生から帰り際に「良かったよ」と言われた一言が僕にとっては意外で(一学生の顔を覚えていてくれていたのが意外で)、今日になった今でも深く心に残っております。
 あの4分間は言葉では言い尽くせないほど大変勉強となる貴重な経験となりました。
 発表の間、深谷先生が以前お話しした「聞く人は、壇上に上るまでの仕草や態度も見ている」と言う教えは意識していたのですが結果的に国旗に対する礼を欠くなど不十分な結果となってしまいました。実践する難しさを実感いたしました。この経験を次に繋げたいと非常に強く思っております。
 年内の政経塾はもう無いのですが、また来年、先生の講義を受けられると思うと楽しくて仕方ありません。先生には今年一年間、教えを頂きまことに有難うございました。

 先生、良い年をお迎えください。」

ーーーー以上ーーーー


 この塾生は8班に分かれて行ったディスカッションの「まとめ」で、登壇した代表の一人で、勿論よく覚えている。
 代表者8人全体に言えることだが、私が思っていた以上に態度、内容などいずれも立派であった。
 4分間という短い時間内で1時間に及ぶ議論の内容を話すことは元々難しいことだ。よほど真剣に、まとめる努力をしなければ出来ないことである。

 一般に、人前で話をするのを安易に考える人が多い。そのくせ「どうもうまく話せない」などと言う。
 相手は貴重な自分の時間を提供して、何かを得ようと期待しているのに「いい加減に」、「適当に」語るなど許されることではない。
 私の場合は、政治家であるという自覚を以て、どんな時でも「話すこと」に真剣勝負で臨んできた。
 大臣時代の答弁は勿論、代表質問の時など、どれほど内容を徹底吟味し、何度も原稿を書き推敲したことか。
 東洋大学で客員教授をしていた頃など、学生以上に予習復習三昧だった。大学院で博士号を目指す学生達に、どんな些細な事でも誤って教えることなど絶対に出来ないからだ。
 最近は講演も多いが、未だに話すことの難しさを感じ、時には、引き受けなければよかったなどと考えたりする。
 政経塾でも同じで、講義の内容に手を抜くなどは絶対にない。必ず原稿を書いていて、極端な場合は何処で笑わすかまで検討し準備している。飽きさせずに語ることは特に大事だからである。
 塾生には、いつもそんなことを伝えてきたが、合宿での代表者の話しぶりは、私の教えをしっかり守ってくれていて感激であった。

 それにしても、このメールでもわかるように、わが塾生はなんと真面目で素直で謙虚なのであろうか。
 女房も「こんな素敵な良い人がいるのですね」と感心していた。
 「いや、うちの塾生はこのような人ばかりさ」

 私の鼻は一層高くなるばかりであった。

第246号 「さよなら談志師匠」

深谷隆司の言いたい放題 第246号
「サヨナラ談誌師匠」

 23日の午後、立川談志師匠(以下師匠を省く)死去の報が流れた。
 実際は21日12時24分に亡くなったとのことだが、親しい知人や弟子にすら知らせず、家族で密葬をしたという。如何にも談志らしい旅立ちだと思った。彼は私より一年下の75歳である。
無性に悲しい。

 実は、最近、元の私の自宅(今は事務所)、日本堤の倉庫の整理をやっていて、偶然、立川談志からの手紙が出てきて昨晩も家族でその話題で賑やかだったのだ。
 手紙の差出しに、1993年5月18日 文京区根津1ノ・・・ 立川談志とある。達者な字で、達筆と言うより洒脱、粋な文字である。

 「前略 過日は御馳走様でした 小生 メイテイ チト はしやぎ過ぎ いささか反省であります、でも楽しき三社様の一夕でした
良き家族に囲まれて貴兄は幸福一杯なのがよくわかりました、皆々様に無禮の段 良ろしく お伝え下さい
何かありましたら何時でも申し付けて下さい 身体で済むことでしたら かけ付けます、酒は水よりも害はない うたぐる前に洪水をみよ とありますが…さあーつ、」(原文のまま)

 彼は1969年、東京8区から衆議院選挙に立候補して落選している。その年に私は東京都議会議員に初当選した。次の選挙で私は国会に出るのだがその選挙区が東京8区、1回ずれていたらライバルだったかもしれないのだ。
 1971年、今度は参議院選挙に無所属で出馬、50人中50番目、最下位で当選を果たした。
 4年後、三木内閣の時に沖縄開発庁政務次官に就く。
 早速、沖縄を訪問したのはいいのだが、二日酔いのまま記者会見に臨み、記者から「公務と酒とどっちが大切か」と追及され、「酒に決まってるだろう」と答えて大問題になった。
 わずか36日で首になったが、その時、石原慎太郎氏に「あやまれ」と言われたが頭をついに下げなかった。
 彼は終生破天荒な生き方をした。
 落語界に在っても、1983年、自分の師匠五代目柳家小さんと真打昇進制度を巡って決別し、落語協会を脱会、自ら立川流を創設し家元になった。
 本人は天才と言われるほどの才能を持ち、古典落語に広く通じ、これに現代的価値観と感性を表現しようと努めていた。

 人情噺「芝浜」等、彼のすばらしい落語を何度も聴いた。噺の途中で独特の解説を加えたり、時には脱線して時事評論を語り出したり、笑いと涙で、いつも興奮して聴いたものである。
 晩年は、あまりに理屈っぽくなって、声も聞き取りにくく、正直、面白くなくなって、どうしたのかと心配したが、病が心身ともに蝕んでいたからかもしれぬ。
 それでも、いわば談志狂といった人々が熱狂的に集まって、どの会場も満員だった。最後まで決して離れなかった大勢のフアン、立川談志の魅力は少しも衰えることはなかったのである。
 多士済々の多くの弟子を育て、今では立川志の輔、志らくや談春など、切符がなかなか手にはいらないような人気者を送り出している。

 彼との出会いは何時だったのか定かではないのだが、印象に残っているのが、ジャズの薗田憲一とデキシーキングスの演奏会で、興に乗った私と二人で籠を持ってチップを集めて回ったことだ。当時私は30歳代、国会議員一年生であった。
 彼とは妙に気が合って、私の選挙になると頼みもしないのに、突然演説会に顔を出してくれて皆を驚かせた。
 もっとも、彼独特の毒舌だから、時には聴衆と大喧嘩になったりして、後から私が謝りに行くという場面もあった。票を集めてくれるのか散らすのか分からないが、彼にしてみれば一生懸命で、私はその心根が好きだった。

 中央区築地場外市場を地盤にしていた磯野義夫区議(今は息子の忠氏が議員)という私の派の議員がいて、その元に桂文字介という談志の弟子がいた。ここに談志が来てよく一緒に飲んだものである。
 浅草の馬道に、あまりきれいとは言えないとんかつ屋があって、彼は独演会の後などよく通っていた。私の家が近かったこともあって声を掛けられ痛飲したが、そんな折、かれは睡眠薬をかじりながら酒を飲んでいた。辞めるように何度も言ったが、「これを飲むから絶好調なんだ」と言ってきかなかった。
 居眠りをしている客に出て行けと怒鳴り、聞く権利を侵害されたと訴えられる珍事件もあった。
強気に見えて実は小心で、心優しい人であった。自虐的なところもあって、それが命を縮めたのかもしれない。

 1999年食道がんの手術を受けたが、以来、糖尿病、喉頭がんで病院の往復だった。落語への執念から声帯の摘出手術はせず、それが致命傷となったのか・・・。
 何度か見舞いにと思っていたが、声の出ないことを苦にして人に会おうとはしなかったという。
話術、落語に生きた彼にとって、声が出ないことがどんなにつらかったろうかと思うと、可哀そうで言葉もない。
 昔、気の合った友人に勝新太郎という名俳優がいたが、見た目こそ違うが、同じように波乱万丈の人生で、最後は声が出ないで失意のままこの世を去った。

 限りある命と分かっていても、こうして次々と知人を失うと、改めて人生の儚さを感じて空しい思いに駆られる。
 自分の歳と重ね合わせて、あとどのくらい生きられるのかと考えたりする。
 しかし、逆に言えば限られた人生だからこそ、せめて精一杯生きるしかないかとも思う。
 とりあえずは健康に留意し、毎日を大切に生きようと、ひたすら自分に言い聞かせることにした。

 立川談志は生前自ら戒名をつけた。
 「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさいかってこじ)      
合掌

第247号 「亡国民主党、ダメ大臣達」

深谷隆司の言いたい放題 第247号
「亡国民主党、ダメ大臣達」

 長い政治生活を重ねてきた私にとって、国会議事堂は自分の人生を賭けたもっとも神聖な場所であった。
 この国の為、国民の為、国会議場で真剣勝負で議論してきたものだ。代表質問に何度も立ち、大臣としてどれだけ答弁に立ったことか。
 今振り返り、あの場所で人生を燃やしたことを誇りに感じ、自分の生涯を通じ、悲しいぐらいに大事な場所であったと改めて思っている。

 その国会議場が、近頃はすっかり荒れているという。やたらと退席し、まるで近頃の大相撲のように空席が目立ち、居眠り議員が多く、そうでない時は野次と怒号が目に余るほどなのである。
 かつて野次は弁論の花と言われ、私も野次将軍と言われた時代もある。それは怒号や騒音ではない。寸鉄心をえぐるような洗練された短い言葉で、相手の誤りを指摘し、思わずたじろがせるような鋭さが無くてはならないのだ。

 近頃の議場を見ると、特に民主党議員のつまらないヤジばかり、その上、離席者が非常に多いのである。
 これは私が指摘するまでもないことで、民主党幹部自身が党の代議士会で発言している。
 11月31日、民主党代議士会で、まず平野博文国対委員長が本会議中に席を離れる議員が多いことを指摘し、「緊張感を持つように」と要請、続いて山井議運理事が「ヤジが行き過ぎている、子供の教育上よろしくないと横路議長が言っている」と紹介した。
 なんとその代議士会も空席が目立ち、司会役の細井代議士会長が、「代議士会は大事だから、出席して欲しい」と呼び掛ける始末であった。まるで小学校か中学校の、それもまさに学級崩壊と言った有様ではないか。
 しかも、その直後の本会議でも離席が続き、空席は民主党だけで30を超えていたのである。

 国民は苦労して懸命に働き税金を納めている。その税金で高い歳費を国会議員に払っているのだ。国会に碌に出ない、政治家としての自覚も熱意もない奴に議員の資格は無い。税金の無駄遣い、やる気が無いのならさっさと止めて欲しい。
 この間まで、国会でいわゆる提案型と称する「仕分け」が行われた。その中で、公務員宿舎問題や公務員の給料削減については喧々囂々の議論はあったが、国会議員の宿舎削減についての発言は見られず、まして国会議員の歳費や定数削減など全く話題にすらしていなかった。
 「隗より始めよ」で、まっ先にやるべきは国会議員の無駄の排除ではないのか。しかもこれはやろうと思えば、自分たちで決めればいいのだから簡単にできる筈のものなのだ。

 今、何かが狂っている。世の常識というものが議会の中で音を立てて崩れつつあるようで心配で不安でならない。

 そのもっとも顕著なのが大臣達の呆れた言動だ。こんな者をどうして大臣にしたのかと、あきれるような連中ばかりではないか。
 11月23日、玄葉光一郎外相は北京を訪問したが、その時、本人の強い希望でチャーター機を用意させようとした。緊急時や辺境の地へ行く場合を除き、外相は民間機を使うのが常識なのにだ。チャーター機の費用は1200万前後もかかる。自民党に来た外遊の了承を求める文書にチャーター機とあったことに仰天して止めさせたのである。
 野田総理が国民に増税を強いようとしている時に、大臣が平気で税金の無駄使いをしようとしていたのである。
 玄葉大臣の非常識ぶりは週刊新潮でも取り上げている。
 「尖閣も中国にさし上げればいいと」飲み会で漏らしたというのだ。絶対に許せない売国奴発言だ。
 しかもこの会をセットしたのはフジテレビの美人記者で、お互いを「玄さま」「マリリン」と呼び合っているというのだ。
 気持ち悪いとしか言いようがない。こんな奴が外交を司る大臣では日本の外交は本当に危ない。

 一川保夫防衛相はブータン国王歓迎の宮中晩餐会を欠席した。民主党議員の政治資金パーティ―に出席するためだが、「宮中行事よりもこちらの方が大事だ」とほざいた。
 問題になると、「(ブータン国王に対して)手紙を出すことを含めてしっかり対応したい」と語ったという。
 「一大臣が一国の国王に謝罪の手紙を出すなどということが、いかに無礼かということも分からないのか」と作家の曽野綾子女史は嘆き、「この一言でも一川大臣が全く常識に欠けた人物だということがわかる」と産経新聞に書いている。
 この大臣は就任直後にも「安全保障には素人だが、これが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」と発言して物議をかもしている。
 蓮舫行政刷新担当相は、同じ晩餐会で携帯電話を使っていた。これもあきれるほどに礼儀をわきまえない非常識な行動であった。

 平岡秀夫法相は死刑執行に判を押さない。オウム真理教事件の刑事裁判が終わったが、年内に執行しなければ19年ぶりに執行が無い年になる。
 就任当時、「死刑制度の是非を考えている間は、当然執行を判断できない」と消極姿勢であった。
 死刑に反対するのは勝手だが、それなら、死刑執行の義務を有する法務大臣のポストに就かないというのが常識ではないか。要はポストだけは欲しいということなのだ。
 去る10月25日の衆院法務委員会で、4年前に少年法を議論するテレビ番組での彼の発言が取り上げられた。
 少年2人にわが子を殺害された母親に対して「加害者に死の恐怖を味わせれば幸せなのですか? 彼等にも、犯罪を犯すにはそれなりの事情があったのですよ」と悲しみの遺族に詰問し、犯罪者の擁護ばかりしたのだ。
 犯罪を防ぐためにも刑法に照らして厳しく対処するのが法相の責任だ。元々大臣たる資質に欠けていたのである。
 委員会で集中砲火を浴びると、直接遺族のもとに謝罪に行くことで逃れようとしたのだが、なんと訪れた日の翌日は新聞の休刊日であった。大きく報じられることを避けようとした姑息な手段であった。思惑通り各社は目立たないベタ記事ばかりであった。

 まだまだお粗末大臣は多いのだが、なんだか気が滅入って来るので今日はこの辺にしておこう。
 いずれにしても、亡国の民主党、ダメ大臣達なのである。

第248号 「橋下維新圧勝の波紋」

深谷隆司の言いたい放題 第248号
「橋下維新圧勝の波紋」

 大阪のダブル選挙は、やっぱり大阪維新の会候補が圧勝した。
 何しろ口八丁手八丁の橋下徹氏が相手では、現職の市長平松邦夫氏、到底勝てる筈はないと思っていた。
 それにしても既成政党に対する市民の見方は厳しいものであった。
 民主党、自民党、共産党までが応援したのに票を見ると驚くほどの大差である。
 
 既成政党が嫌われた第一の理由は民主党にあると私は思っている。
 「政権交代」と華やかに登場した民主党政権だったが、いざスタートするとマニフェストはただの羊頭狗肉、いいことづくめは表向きの看板だけ、次々と変更して国民は騙されたと、たちまち気づかされた。
 しかも、わずか2年間に3人も総理大臣が変わる。任命された大臣はどれも己の立身出世ばかりを考えて、資質の無さを露呈したいい加減な言動ばかり、 こんな政党では駄目とすっかり嫌われてしまったのだ。
 残念ながら自民党も野党としての追求はパッとせず、そもそも政権奪取の勢いが感じられない。その上、前回の知事選挙で橋下氏を応援したのに何故と、そこのところが分からないという声も多かった。
 まして、思想の全く違う共産党まで参加しての戦いだ、一層訳が分からなくなる。一応公明党は自主投票ということになってはいたが、いずれにしても既成政党全体が一体何をしようとしているのかさっぱりわからない。
 その上、世の中を覆う閉そく感、大阪の長きにわたる地盤沈下、そんな鬱積した心から市民は「継続」より「変化」を求めた。
 府と市を解体し新たに大阪都を創るという橋下氏の声高な構想に、ぼんやりした期待をもって託そうということになったのではないか。

 それにしても各週刊誌の橋下氏に対する攻撃も酷かった。父親や身内のスキャンダルめいた話題から、はては彼の出自に至るまで執拗なまでに記事にした。
 私にも週刊誌に親しい記者が大勢いる。みんないい人たちなのに、なぜ今回はこれほど叩くのか、他人事ながら不満だった。
 一方の橋下氏も黙ってはいない、「バカ文春」「バカ新潮」と連呼し続けた。
 選挙直前までの極端な批判記事は、選挙違反ではないかと思えるくらいであったが、選挙民は逆に判官びいきになっていった。
 当選の記者会見で、橋本氏は「バカ文春」「バカ新潮」のお陰で勝てた。感謝しているとまで語っていた。

 選挙中のテレビの場面で驚いたことがあった。平松候補が市役所前で演説した時、なんと市の職員が大挙集まってきたではないか。演説が終わるとぞろぞろ役所に帰っていったが、何とも異様な光景であった。
 橋下氏は当選後の記者会見で、市の職員に対して、「民意を無視する者は去れ」とはっきりした意思表示をし、選挙に深入りした者は自主的に身を退けと言っていた。気持ちは分るが、これから市民のために働くとなれば当然市職員の協力が無ければならない。好んで敵を作ってはならないのだ。
 やっぱり独裁者だと言われないように、これからは大きな度量を持つことも大事だと、老婆心ながら思ってしまう。

 ところで、大阪府知事になった松井一郎氏はどうなっているのか。橋下氏の陰ですっかり霞んでしまって存在感ゼロではないか。
 まあ、今までは府と市が対立し二重行政の弊害があったから、傀儡と言われようと、何でも言うことを聞きそうな松井氏でもいいのかもしれない。

 橋下氏は「平成27年4月に大阪都への移行を目指す」と言っている。
 大阪都構想では、人口267万人の大阪市と84万人の堺市について、それぞれ人口30〜50万人で10前後の特別自治区に分割し、選挙で選ばれた区長を置いて各区に中核市並みの権限を持たせる。都に府市の公益行政を一本化して権限と財源を集約すればインフラ整備など無駄なく進められる。
 つまり、今の東京都と23区のような仕組みを考えているようなのである。(この辺りはあまり明確になってはいない)
 余談ながら、23区には市と同じような権限は長らく無かった。区長会を中心に長年自治権獲得運動が続けられたがさっぱり進まなかった。その夢をかなえてあげたのが不肖私で、自治大臣になった時のことである。

 橋下構想の実現には三つの壁がある。
 一つは府市議会でこれに賛成する決議だ。府議会は今春の地方統一選挙で維新の会が過半数を占めたから可決するが、市議会では第一党だが過半数には届いていない。今後の対応次第でどうなるかわからない。
 二つは憲法95条で定める住民投票だ。人の心は移ろいやすい、これから先、住民の反発は起こらないか、50%以上の住民が果たして賛成するのか、そのあたりは不透明である。
 三は国会での地方自治法の改正が必要で、実はこれが一番難しそうだ。橋下氏は維新の会の国会進出をほのめかせてはいるが、そんなことは簡単でない。
 今の人気が続くのか、何よりも現在敵になっている既成政党の協力は不可欠で、それが無ければ終わりなのである。
 一体4年で実現できるだろうか。率直に言って私は難しいと思っている。
 私が一番恐れるのは、壊すだけ壊して放り出されることである。機を見るに敏なところがありそうなので、ひたすら「変節」することのないよう祈るのみだ。

 大阪都構想実現は難くても、勿論できることは沢山ある。府と市が一体となれば今まで抱えていた無駄を一掃することが出来る。
 心配なのは、大阪都構想について本当に分かっている人が少ないということだ。言葉だけが先行しているのが現状だから、早くそのメリット、デメリットを整理して、市民に丁寧に説明していくことが大事である。

 激しい血みどろの戦いは終わった。
 「政権交代」の大騒ぎの後の、お粗末な民主党政権の轍を踏まないよう、また、独断専行で独裁者とならないよう、しばらくは目が離せないと思っている。

第249号「上も駄目なら下もダメ」〜沖縄防衛局長更迭〜

深谷隆司の言いたい放題 第249号
「上も駄目なら下もダメ」〜沖縄防衛局長更迭〜

 先月の12日、日米首脳会談で野田総理はオバマ大統領に、米軍普天間飛行場の辺野古移設に向けた環境移設評価(アセスメント)の評価書を今年中に提出すると約束した。沖縄県内ではアメリカ一辺倒だと猛烈に反発している。
 そんな中、田中聡沖縄防衛局長がとんでもない発言をし、直ちに更迭されるという事態となった。この評価書の責任者が防衛省の地方組織のトップ田中局長である。
 こんなアホがいるかと私でさえ腹が立ったのだから地元民の怒りは収まらない。

 田中氏が問題発言をしたのは、28日の夜で、那覇市の居酒屋で報道記者約10社が集まった酒席であった。
 この会は田中氏が、記者会見以外に率直な意見交換がしたいと自ら開いたものである。冒頭、この席の発言は完オフ(完全なオフレコ)と決めていた。
 評価書をいつ提出するのかとの記者たちの問いかけに、「これから犯す前に犯しますよと言いますか」と発言したのだ。
 元々、普天間移設のきっかけは、16年前の米海兵隊による少女暴行事件であった。その後も同様事件は後を絶たない。
 こうした状況の中で、評価書の提出時期を明かさない政府の姿勢を、女性への性的暴行に例えるとは・・・。
 県民感情を無視したなんと無神経な、なんと下品な奴であろうかと強い怒りを禁じえない。
 仲井真沖縄県知事は「コメントする気も起らん、口が汚れるから」と吐き捨てるように言ったがその気持ちはよく判る。

 そもそも普天間移設を巡る問題を、ここまでこじらせてしまったのは2009年政権交代をした鳩山由紀夫元総理の「県外移設を模索する」という発言からである。喜んだ沖縄県民は拍手を送り、すっかりその気になったが、当然のことである。
 自民党政権時代の1996年、日米両政府が米軍普天間飛行場の全面返還を発表し、2004年までの辺野古移設に合意していた。当時も反対の声はあったが知事を含めてやむなしの方向で動き出していた。
 2010年5月になると鳩山政権は、180度変わって、再び辺野古移設で合意してしまった。
 沖縄県民の怒りは頂点に達し、こうなっては知事も「県外」に固執、反対の姿勢を崩すことが出来なくなった。
 当初、野田総理は事の重大さに気づかず、29日は記者の質問に答えず1日中沈黙していた。あくまでも事務方の不祥事で片付けようとしたのかもしれぬ。
 翌日あわてて陳謝したが遅すぎる対応で、初の党首討論で責め立てられ平謝りであった。そんなこともあってか、自民党の谷垣総裁に逆質問などして立場を繕っていたが、茶番にしか見えなかった。
 30日の午後になって、中江事務次官が仲井真知事を訪ね謝罪したが、相手にされず、15分の予定をわずか6分で追い返されていた。

 念のため環境影響評価に触れるが、これは法に基づいて、道路建設や埋め立てなどの事業が環境に悪影響を及ぼさないかを調べる制度である。
 住民や自治体の意見も聞いて環境影響評価をまとめ、評価結果は事業計画に反映させることが定められている。
 米軍普天間飛行場の移設では防衛省が評価書を提出することになっている。沖縄県知事は埋め立て部分は90日以内、飛行場は45日以内に意見を提出。防衛省は必要に応じて内容を修正して評価書を確定させて公表する。1か月間の縦覧期間が終われば、国が着工に向けた埋めたて許可を知事に申請することが可能になる。
 今回はその評価書提出前のごたごたでつまずいたわけで、年内提出さえ怪しくなってきた。いずれにしても最後は知事の許可が必要で、こんな状態で解決できるのか、私はとても無理な話だと思っている。

 記者との完オフ懇談は、大臣時代も含めて私は何度もやっている。どんなに完全にオフレコと約束しても、これが記事になると考えたら記者はかならず記事にする。それは記者として当然の態度である。だからどんなに心許した懇談でも、又、如何に酒に酔おうとも、言ってはならないことは絶対に口にしないよう努めたものだ。
 人間大好きの私の場合、いわゆる番記者と個人的な信頼関係が生まれ、その後、家族ぐるみの付き合いが続いたりしている。
 この間も夫婦同士で旅をした元NHK政治部記者の秋田君などもその一人で、郵政大臣時代から実に21年の付き合いになる。それでも公職にある時は決して余計なことは言わなかった。
 今の大臣達はすっかり安っぽくなって、なんでもかんでも得意げに、まるで自慢げにペラペラしゃべる。国の危機管理など頭の隅にも無いのである。
今度の件は「上が駄目なら下もダメ」と言うことか・・・・

 それにしても、防衛局長の更迭は早かった。勿論防衛大臣が決めたのだが、自分のことは棚に上げて、部下の時だけは的確迅速にやる。この一川保夫防衛大臣の神経はどうなっているのか、こういうのを鉄面皮と言うと私は思うのだがどうだろうか。
 就任直後の「私は安全保障の素人」との呆れた発言、プータン国王夫妻歓迎の宮中晩餐会の欠席、まったく大臣としての資質、資格が無い。まず即座に更迭されるべきは防衛大臣ではないか。
 野党は一斉に防衛大臣の問責決議案を出すと言い始めた。全くもって当然のことで、そんな事も出来ないようなら野党の値打ちが無い。
 おっと、その時は山岡賢次消費者担当相も忘れずに一緒にやってくれ。マルチ商法業者との癒着がこれほどはっきりしている人はいないのだから・・・・・・。

第250号 心地よい「田原小100周年祝賀会」

深谷隆司の言いたい放題 第250号
心地よい「田原小100周年祝賀会」

 台東区立田原小学校が創立100年を迎え、12月3日記念式典と、祝賀会が催された。
 案内状を貰った時、はて、今から100年前はどんな状況であったかと、思いめぐらせた。乏しい知恵を駆使するより、こんな時は調べるに越したことはないと、大学や塾で教えてきた私は、早速、日本史を紐解く。
 私は自分で言うのも変だが、昔から割と勉強好きであった。やはり政治家よりも本当は教育者に向いているのかも知れぬ(?)。

 明治44年(1911年)の話題は面白いようにある。
 身近なところでは上野動物園に初めて「カバ」がお目見えとある。今ではもっぱら「パンダ」が大人気だが、当時は「カバ」に子供たちは大騒ぎしたようだ。
 遊郭吉原の大火など暗い話もあったが、東京市電(都電)が誕生し、お江戸日本橋が装いも新たにして開通式を行い、帝国劇場が開設されるなど華々しい時代であった。
 町のイルミネーションが装飾や広告として急速に普及し、銀座にはカフェ・ライオンがオープンした。
 当時の日本人の人口は5200万人と今の半分以下だが、東京を中心に近代化の足音が聞こえてくるようだ。

 明治維新後、我が国は1日も早く西欧に追いつきたい、外国に馬鹿にされない国を造ろうと、富国強兵に努めたが、そのためにも人材育成が急務と学校教育に力を注いだ。
 1872年に学制発布、翌年には東京師範学校付属小学校を皮切りに75年には全国に2万4000校の小学校が生まれた。
 但し、その頃の就学率は男子46%、女子17%とさびしいものであった。
 国はすべての国民に教育を受けさせる「義務教育」を目指したが、ようやく充実してくるのは、1900年代に入ってからで、1907年に小学校は6年制になり高等小学校は2年間となった。
 そんな時代に田原小学校が誕生した。なんと輝かしい歴史であろうか・・・。

 3日の午前中、祝賀式典が学校で盛大に行われたが、私は先約の為出席していない。手書きのお祝い文を届けたが、式典で発表されたと連絡があった。余談だが、出席して居たら、挨拶も紹介も無かったはずだから、「かえって良かっですね」と言われ、妙な気分であった。
 6時からの祝賀会には出ますと連絡していたが、父母会の役員がわざわざ来宅、「是非、乾杯の音頭をお願いしたい」と丁寧に申し入れてきた。
 私の秘書だった石塚区議会議員からも電話が入った。「祝賀会実行委員長から、深谷先生の挨拶は無いが乾杯をお願いしたいのでよろしくお伝えください」と連絡があったとのことである。
 どうやら来賓祝辞は現職の議員と決まっていて、私の挨拶は無いので主催者が気にしてくれたようなのだ。どんなに経歴を積もうと、政治家は無冠になったら、それが当たり前の事なのだが、そこまで気遣いしてくれる人たちの気持ちが何よりも嬉しかった。

 式典では、議員の挨拶が長く、しかも中身が無いので閉口した。民主党政権になって、近頃は政治家の質も落ちたものだなと秘かに思った。
 私は自民党政経塾の講義で「挨拶の秘訣は短く終わらすこと」といつも教えているのだが、これは他山の石だなと改めて思ったものである。
 鏡開きに私も登壇して、その後、いよいよ私の出番だ。
 司会者が、「乾杯前に一言ご挨拶を」と親切に付け加えてくれる。これも「嬉しい心」だった。
 「私には、この田原小学校に格別の思い入れがあります。ご存じのように私の自宅は田原町から駒形に至る大通りに面しておりますが、学校の校庭とも地続きなのです。
 6年前、ここに8階建てのビルを建てようとしました。私には3人の子がいてそれぞれが家庭を持っておりますが、全部呼び寄せて終の住家にしたかったからです。
 台東区役所の建築許可も取り、建設会社も決め、説明会に入ると、なんと田原小学校側から陳情がきたのです。
 「子供たちに空を残してください」と言うのです。
 なまじ反対と言われれば、私のことですからは建てたと思います。しかし、「生徒たちのために」と言う陳情には弱かった。
 私は思い切って半分の4階建てにすることを決意しました。40坪の4階ですから160坪の土地を捨てることになります。なによりも子供たちと住めなくなることが辛かった。しかし、今でも後悔しておりません。田原小学校が、そして子供たちが喜んでくれるなら、立場上、私が我慢すべきだと心得ているからです。(拍手)
 今では、周りは全部11階建てのビルが建ちました。私の家が一番低い。もう少し待てばよかったとは思いますが…(笑)。
 学校を発展させ、子供たちを立派に育てるためには周囲のみんなが心を込めて支えなければなりません。
 今回の創立100周年の祝賀会が、田原小学校をしっかり支え合う第一歩となりますよう心より祈念します。長い挨拶は致しません。以上を以てお祝いの御挨拶といたします。(拍手)」

 私の挨拶は2分半と短いものであった。しかし、言いたいことは全て網羅したと思う。私の経験でも、こんな短い挨拶の中で、300人を超える人々から拍手と笑いが素直に起こるなどということはめったに無かった。
 実は、色々の人の配慮に応えようと、事前に話の内容について入念な検討をしていたのだ。食事中も考えていて、「そんな怖い顔をしてどうしたんですか」と女房に言われたくらいであった。

 乾杯の音頭を終えて席に戻ると、次々に握手を求められた。教育委員の一人は、「教育委員は皆、先生のあの話を知っていますよ」と言ってくれた。

 私にとって久しぶりに心地よい「創立100周年の祝い」であった。

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