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言いたい放題 第161号 「災い転じて福となす」

 未だ被災地の多くの人々は、逆境の中、苦労が続いている。
 本来なら、政治や行政がもっと敏速に対応し、せめて前途に希望が持てる状況を作り出すべきなのだが、軽々な言動ばかりが多く、何度も方針が変更されるなど、無策続きで、かえって不幸を増幅させている。
 せめて有能な官僚を駆使して対応させるべきを、政治主導の一つ覚えで、むしろ彼らを退けている。
 原発事故にしても、早くからの米国の協力提案を断ったり、一体、何を考えているのかわからない。
 こうなると、明らかに天災ではなく、人災である。
 政府の無能から、原子力エネルギーそのものまで否定される世論が形成され、定着しはじめている。
 これでいいのかと、かつて通産大臣やエネルギー戦略合同部会長を務めた立場から、疑問を持っている。
 今、原子力エネルギーを肯定しようものなら、何を言ってるのかと袋だたきされるようだが、実は、今回の場合、原子力発電所の安全確保維持に重大な瑕疵があった訳で、これをもって、全て否定するのは行き過ぎだと私は思っている。
 一度飛行機が墜落したら、飛行機は全てダメという理屈はない。二度と墜落させないための研究、工夫を重ね、より安全確実なものに変えていく、これが文明の進歩ではないのか。

 原子力発電は1965年、茨城の東海発電所で日本初の商業用原子炉として稼動した。
 以来、発電量は70年代に石炭を超え、80年代に水力を上回り、90年代にはついに石油を抜いて、電力需要の中心となった。
 一時期、エネルギーの安全保障が盛んにいわれた時代がある。
 1973年の第一次オイルショック以来のことである。第四次中東戦争(エジプト、シリアがイスラエルを攻撃)で、OPEC加盟6産油国が産出削減を行い、原油価格をつり上げた。その上、米国などイスラエル支援国への禁輸を行った。
 当時、日本はまさに高度経済成長期で、安い石油を大量輸入していただけに、大きな打撃となった。
 それまでは、石油価格の決定権は石油メジャーにあり、つまり買い手市場であったが、この時以降は完全に産油国へと移った。
 当時の日本のエネルギーの石油依存度は、実に78%と米(47%)、英(50%)、独(47%)に比較して圧倒的に高かった。
 第二次石油ショックも経て、このままでは日本を守るためのエネルギー安全保障は不可能で、一気に石油依存の脱却、エネルギーの多様化が図られた。
 日本は主要国の中、最低の資源小国である。自給率でいえば、米72%、仏51%、独40%、日本はわずか4%だ。今、原子力を含めても18%に過ぎない。
 エネルギーは、1に安定供給、2に経済効率性、3に環境適合性が求められるが、この3点を満たすものが、まさに原子力でもあった。
 今、総発電電力量は、原子力が29.2%、LNG(液化天然ガス)29.4%、石炭24.7%、水力8%、石油はわずか7.6%まで押さえ込まれている。如何に、日本のエネルギーが脱石油、原子力に依存して来たかがわかる。
 もし、3割を占める原子力発電をなくした場合、それに変るエネルギーが必要だが、残念ながら、その開発は遅れているし、今でもあまり期待出来ないというのが実際である。
 太陽光や風力など、新エネルギーとして大きな話題となっているが、まだ全体の1%に過ぎず、コストも高い。当面、原子力の穴を埋めるものとしては、LNGか化石燃料の高度利用しか考えられない。

 今度の災害で東北電力の女川原発は大津波に直面しながら、安全に停止し、何の問題も起こらず、一時的には地元民の避難所にさえなった。
 津波を想定し、14.8メートルという高い位置に建設しているからである。
 新潟の東電柏崎刈羽発電所も震災の影響を受けずに連日稼動し、計画停電の時も大いに役立った。

 原子力発電の最大のネックは、放射性廃棄物が何百年経っても消えない点だ。そこで、核燃料サイクルを構築することが必要になってくる。
 この問題を解消し、逆に半永久持続型燃料として活用出来ると期待していた。しかし、残念ながら、これが日本では目下実現出来ず、使用済み燃料の処理等は、豪州、カナダ、米国などに依存している。

 原子力発電を全面否定することは簡単なことである。しかし、一番大切なことは、危険性と必要性の双方を直視して、バランスのあるエネルギー戦略を打ち立てることではないかと私は思う。
 原子力発電所でいえば、地震や津波を考えて立地条件を再検討する。老朽化への早急な対応を図ることも必要だ。前述の核燃料リサイクル実現も急務である。今後どこまで活用可能なのか、研究するべき課題である。
 一方、当然のことだが、新エネルギー開発へも国をあげて取り組まなければならない。
 例えば太陽エネルギーの活用を各家庭に広げて、一部の発電能力を国民も持つようにする。
 そうすれば、電力会社のみの発電能力ではなくなるから、価格改定だって一方的に出来なくなる。
 そして、最も重要なことは、生活の全てを電化し、それが当たり前という生活習慣を大胆に変えていくことだ。省エネ思想が徹底し、節電が当然の暮らしとなることこそ必要で、しかも、これこそが一番やりやすい、今、実現可能な道ではないか。
 今回の不幸な出来事を明日の糧にする。災い転じて福となす、これこそ日本得意の思想文化ではないか。

言いたい放題 第162号 「会うが別れ」

 遠州流茶道宗家、十二世家元小堀宗慶翁が去る四月二十四日、御逝去された。
 二十八日、練馬区の広徳禅寺で告別式が執り行われたが、格式ある四百年の歴史をもつ遠州流にしては、厳粛ではあるが、やや地味な感じの葬儀であった。
 これが、まさに武家茶道の代表といわれる遠州流らしい静謐さなのかもしれないと思った。
 今年の初釜で伺った時、宗家のお姿が見えず、どうなされたのか心配して尋ねたが、「自宅で療養中です」とのことだった。
 後継者の十三世宗実氏はじめ家族に囲まれて、悠々とこの世を去られた、如何にも宗家に相応しい大往生であった。
 江戸時代初期の大名で茶人小堀遠州が遠州流の流祖だが、作事奉行として桂離宮や名古屋城の建築を手がけ、大徳寺や南禅寺の代表的な造園を残した。書画や和歌を得意としたが、宗家も又その血を受け継ぎ、立派な作品を残している。
 享年八十八歳、惜しみても余りある別れであった。

 宗家とのご縁が出来てから、もう二十六年の歳月が過ぎている。
 長女知美が二十歳になった時、お茶を習わそうということになって、女房が佐藤寛子夫人に相談に行った。総理大臣を務めた佐藤栄作先生の奥様だ。
 その頃私は佐藤先生に特に大事にされていて、よく世田谷のお宅に出入りしていた。

閑話三題
その一
 私の選挙区は激戦区でいつも対抗馬に虎視眈々と狙われていて、悪質なデマも流されていた。その中に「深谷は世田谷の豪邸に住んでいる」というのがあった。
 「下町の太陽」などと呼ばれているのに山手に豪邸とはけしからんとの、轟轟たる批判が起こった。理不尽な話だし、ありもしないことだから、いずれは消えると軽く考えていたのだが、噂は噂をよんで広まる一方だった。
 このデマには相当悩まされ、事実かなりの票を減らしたこともあった。
 何のことはない、世田谷の佐藤邸によく通っていたことから出た噂で、これは利用できると相手陣営が思い、一層広げて、それが何年も続いてだんだん本当のことらしくなってしまったのであった。
 今は、自宅を雷門に建て倅一家と住んでいるが、わかりやすい場所の故か、ようやくこの噂も消えた。ちなみに事務所は日本堤に移した。つまり、自宅と事務所を入れ替えたのである。

閑話その二  
 佐藤寛夫人に伴われて、女房と娘が訪れたのが、当時信濃町に在った遠州流の家元宅であった。決して派手でなく、むしろ地味なくらいで、費用もあまりかからないから、というのは、夫人がここを紹介してくれた理由であった。
 家元の立派な風貌、立ち居振る舞い、何よりも教義の奥深さにたちまち魅せられて、二人は入門することを決めた。娘は直弟子になることになって、さて、入門料、授業料等の支払いとなって、はたと困ってしまった。所持金が足りなかったのだ。
 もじもじしていると、なんと寛子夫人が自分の財布を黙ってそっと手渡してくれたという。後々まで、女房はこの時の様子を、感激をもって話している。
 娘は嫁ぎ二人の子の親になり、女房も忙しくて通えないが、懐かしい良き思い出の一つになっているようだ。ちなみに、女房は教授に、娘は師範となって芳春という庵号を頂いている。

閑話その三
 佐藤総理に、はるか後輩の政治家としてとして可愛がってもらえるようになったのは、私が三十台半ばの東京都議会議員のときからであった。
 当時、都議会自民党の幹事長をしていた粕谷茂氏が、次の参議院議員選挙の公認候補者に決まっていた。私は副幹事長であったが、仲間たちと、粕谷氏が当選すれば都議会は国会への登竜門になると意気込んでいた。
 ところが、しばらくすると、新たに、警視総監を務めた原文兵衛氏が追加公認になり、あれよあれよという内に粕谷氏が外されてしまったのだ。
 烈火のごとく怒り狂った我々は、まさに怖いもの知らずで佐藤邸に押し掛けたのである。
 政界の団十郎と言われた佐藤総理は、にこやかに十数人の都議会議員を応接間に招き入れてくれた。
 私が代表して、口角泡を飛ばす勢いで、なぜ公認候補者を変えたのかとその理不尽さを滔々と訴えた。
 黙って静かに聞いていた総理、「君が深谷君か、元気があって頼もしいな」といきなり私の名前を言うではないか。勿論、私にとっては初対面の雲の上の大政治家だ。名前を知ってくれているだけでもう感激でメロメロだった。
 「粕谷君本人が納得するならいいだろう」
 「いや、本人が了解する筈はありません」
 「彼は、わが自民党の為に、大局的立場から辞任してくれたのだよ」
 「そんなことは考えられません」
 「実は彼は隣の部屋にいるんだよ」
 皆があ然としていると、当の本人が困った顔で隣室から現れたのである。
 さすが人事の佐藤と言われていただけに面目躍如といった具合で、我々は言葉もなかった。
 しかもその時、間髪入れずに「みなさんご苦労様」と寛子夫人が酒肴を持って入ってくるではないか。
 1969年、寛子夫人は沖縄返還協定調印の為に出かける総理に同行し渡米した。その折のミニスカート姿が大きな話題になったこともある。何とも言えない魅力的な人であった。
 以来、私はすっかり憧れて二人の信奉者になってしまったのである。
 そんなことを言ってはいけないのだが、近年の総理大臣とは大違い、つまりは器が違いすぎるのだ。もっとも、総理大臣七年八か月、歴代最長記録の人と比べる方が酷というものかもしれない。
  
 その後、間もなく粕谷氏は自民党推薦、私は無所属で国会に勇躍躍り出ていったのであった。

 1987年、佐藤総理は筑地の料亭新喜楽で突然倒れた。脳卒中であった。
 直ちに病院に運ぼうと連絡を受けた寛子夫人は、断固これを拒んだ。脳卒中患者を動かしてはいけないという鉄則を守ろうとしたのである。
 結局、何日も料亭に留まることになったが、新喜楽は一言も苦情は言わず、その間、休業したままであった。
 筑地本願寺で行われた葬儀に当たって、私は寛子夫人に依頼され遺骨を抱いて世田谷の邸宅から向かった。葬儀場で失意の寛子夫人は私の手を握り続けていた。そんな光景が、何冊かの女姓雑誌にグラビア写真で掲載されたものである。

 遠州流宗家の葬儀の粛々と続く中、私の脳裏に、過ぎ去っていった日の様々な事柄が走馬灯のように浮かんでは消えた。本当に色々なことがあった。 
 私も随分長いこと生きてきたものだ。そしてこれからも私の人生は続いていく。
 会うが別れというが、出会えたことを有難く噛みしめ、これまでもそうであったように、出会った人を大切にしていこうと、しみじみと思うのであった。

言いたい放題 第163号 「突然の浜岡原子力発電所停止」

 菅総理大臣は静岡県御前崎市にある浜岡原発に対し全面停止を要請した。これを受けて中部電力は五月九日、全炉を数日中に停止することを臨時取締役会で決めた。
 要請は六日七時過ぎに突然発表された。何事も常に後手後手の総理だが、今回の決断はなぜか早かった。
 ただ、どこまで熟議がなされたかについては、かなり疑問が残っている。
 夏の電力不足や日本のエネルギー政策について、十分な吟味をしたという様子は皆無なのだ.

 稼働中の原発を止めるというのは初めてのことで、日本のエネルギー政策を転換するのか、これは立地自治体にとって、あるいは経済界にとっても大きな影響を与えることになる。世界の国々はどう受け止めるのか、ひとり日本だけの問題ではないのである。
 前にも述べたが、日本の発電電力量の約3割は原子力が占め、新エネルギーはわずか1パーセントにすぎない。短期間で原発に代わる発電規模にすることなど全くと言ってよいほど不可能なことだ。代替手段となる火力発電にしても、温室効果ガスの排出量増加につながる。菅総理の頭には、これらの課題を即座に解決する具体策がある筈もない。
 一応、この判断はあくまで例外的なもので、中部電力以外には波及させないと政府はやっきになって強調してはいる。今までのような「思いつき」でなければいいがと考えているのは私だけではないであろう。

 何故、浜岡なのかについて、政府の地震調査委員会の言う「この地域は東海地震の震源域にあたり、今後三十年以内にマグニチュード8程度の地震発生確率が87パーセント」にあることはいうまでもない。ただ、ここまで断定的に言うと、新たな風評被害も起こってくるようで、この地域一帯の振興発展に影響しないのかと心配になってくる。

 中部電力のこれからの課題は、実際に止めた時の需要と供給のバランスをどうとるかだ。
まず考えられるのは「電力融通」で、関西電力などから電気を買うことだが、これは一応なんとかなる。困るのは、実は東電への融通が出来なくなることである。中部電力は周波数を50ヘルツに変換して東電に融通していたが、これが無くなると夏場の東京で電力不足に陥りかねないのだ。
 中部電力では、火力発電の出力増強や停止中の古い火力発電設備の再稼働を検討している。そこで問題になるのが燃料の調達と費用だ。特に費用だが、火力燃料の石油や液化天然ガス( lng)は原子力燃料より割高で、負担増はなんと一日七億円、半年続くと今年度の営業利益の見込み千三百億円が消えてしまうという。
 
 福島原発の事故以来、何かというと「脱原発」という言葉がやたらと先行するが、事はそんなに簡単なものではないのである。

 菅総理の政治判断についての評価は、目下のところいろいろだが、さてこれからどうなっていくのか、固唾を飲むような思いで見守るしかない。

言いたい放題 第164号 「私心無し」

 十一日のテレビに映る、天皇皇后両陛下の避難所の人々を見舞うお姿に、思わず目頭が熱くなった。
 この日は、原発50キロ圏内の相馬市中村第二小学校や福島市のあずま総合体育館を訪ねられた
 大震災以来二か月、心身ともに傷ついている避難民の下に、皇室ご一家は度々お見舞いに訪れている。
 秋篠宮ご夫妻もそうだが、皇太子ご夫妻、特に雅子様のご訪問には心が和んだ。長らくご病気のため思うように公務を果たすことが出来なかった。そのために心無い批判の声も起こり始めていた。
特に大勢の人前に出て、カメラや報道陣に注視されることが苦痛であったと伝えられていただけに心配であった。しかし、避難所で真摯にお話しなさるお顔は、とても表情豊かで、確実に回復されつつあるという印象であった。

 両陛下は、すでに七週連続で被災地や避難所を訪れていて、避難所のお見舞いは実に十一か所にのぼっている。
七十七歳、七十六歳というご高齢のうえ、この二月には検査入院をされている。美智子様も昨年、咳喘息や結膜下出血などで体調を崩されている。
 しかし、お疲れのご様子を少しも見せず、避難民の前に膝を屈して優しく接し、一人一人にお声をかけられる.その為に毎回予定時間が過ぎてしまう。
 避難民の中には、胡坐をかいて応対する礼儀知らずの人もいる。一応禁じられている筈の写真を撮ったり握手を求める人も多い。しかし、両陛下は一向に構わず、特に美智子様は自ら手を握られる場面さえあった。 
 比較するのは不遜だが、やっぱり、菅総理の訪問時の情景を思い出してしまう。
如何にも形式的でおざなりで、ほんの数人に声をかけただけでさっさと引き上げる姿に、ある会場では激怒して食って掛かる人まであった。
 両陛下は仰々しい警備を一切排して、時にはマイクロバスに乗られるなど深い配慮をなされ、しかも沿道の人々にも手を振り続けられた。

 皇室の歴史は千数百年に及ぶ。こんなに一つ王朝が続いたことは世界でも稀なことである。
 戦後は新憲法のもと、天皇は「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」となられたが、常に国民の精神的バックボーンであることは間違いない。
 あの第二次大戦の終戦直後、米軍を中心とする占領軍が、最も恐れたのは日本人の反乱であった。
 ところが日本国民は、天皇陛下の詔勅に粛々と従い、他の国には決してない冷静さで、敗戦の事実を受け止め、黙々と日本の復興と発展のために努力したのであった。
 世界の国々から、日本の奇跡とまで言われた戦後の発展ぶりは、国民の叡智と努力、そして政治や行政の成果だが、その背景に皇室の揺るぎない存在があったからだと私は思っている。
 昭和天皇とマッカーサー元帥のツーショット写真はあまりにも有名だが、あの時、マッカーサー元帥は天皇が命乞いに来たと思っていた。ところが事実は逆で、天皇は御自分の一身を賭して、日本国および日本人を守ろうとしたのであった。無私の天皇のお姿に深い感動を覚え、以来、彼は天皇を崇拝し、日本に大きな信頼を寄せたという。

 大震災以来、二か月経つが、未だに11万5000人を超える人々が避難所で暮らしている。仮設住宅はわずかに8000戸しか出来上がっていない。これは阪神淡路の大震災の時と比べてあまりにも遅いピッチだ。
かの地に比べて、被災地の自治体の規模が小さいことや、何よりも津波という甚大な被害があったことを考えれば、一概に比較はできないというものの、それにしても対応の遅れは否めない事実だ。
 
菅政権で震災以来、二十を超える対策会議が作られた。しかし、数さえ多ければいいというものではない。むしろ、統率が全く取れず、かえって混乱を招くばかりであった。その上、世界的にも評価の高かった優秀な官僚を使おうとしない。一体何を考えているのかさっぱりわからない。わかるのはあれはパホーマンスだということか。
 
大震災以来、国内はもとより世界中から救援の手が差し伸べられている。世界からの支援は物心ともに膨大なもので、日本に寄せる世界の人々の熱い同情や期待の大きさを物語っている。
 しかし一方で、菅政権の稚拙な判断やお粗末な対応ぶりが世界中に伝わり、これでは日本の行方が心配、という声が定着しつつある。

 皇室の方々、とりわけ両陛下のお姿から、せめて「私心無し」ということが、今、菅総理に求められているということを知ってもらいたいと思うのだが…。
 やっぱり、無理かなあ・・・・・・。

言いたい放題 第165号 「色々に思うこと」

 地方統一選挙が終わって、ようやく一息ついて、今年の連休は京都で過ごした。
 孫たちが交代で訪ねてくるなど、久しぶりに自分の生活を取り戻したような日々であった。
 東日本大震災で未だに苦労している人々のことを思うと心は痛むが、いつまでも自粛自粛では日本経済は沈む一方で、結果的にはかの地の人々の為には決してならないと、自らに言って聞かせている。
 毎朝七時にはホテルを出て、鴨川の岸辺を歩き、時にはまだ覚めやらぬ商店街を、喧噪の時を想像しながら散歩する。昼間の観光も加えれば1日1万5千歩は歩いている。
 京都の町もようやく賑わいをとり戻していて、神社仏閣など何処へ行っても押し合いへし合いで大盛況であった。

 京都には私の友人たちが沢山居る。いわゆるファングループで皆健在、懐かしがって集まってくれる。
 たん熊本家、未在、川太郎、おでんのおいと、お菓子の田丸弥・・・、いつもそうだが、まるで選挙区の応援者の家に顔を出しているような塩梅なのである。
 夜は一力裏の「とも」に繰り出すが、ここのマスターのギター、ラテンものの歌などは秀逸だ。今回は大阪の松本さんの他、井澤屋の夫婦も初参加した。
 高台寺の砂利道で、私は不覚にも足首を少し捻挫した。しかし、例の足腰の神様、護王神社がついている。宮司の心のこもったお祓いで、今はもう回復一路だ。

 帰京した翌日、日本橋産業協会で講演した。この会は地元の人々の集まりで、毎回熱心に勉強会を開いている。
 私は何回も出ているが、この日は日本のエネルギー問題を中心に話すことにした。

 先進国の中で最も資源小国の日本は、圧倒的に石油に頼ってきたこと、そして1973年の石油危機以来、エネルギー安全保障が唱えられるようになり、省石油の空気となって原子力エネルギーに力を入れるようになった経緯を詳細に述べた。地球温暖化で環境問題が声高に言われるようになると、CO2を出さない原子力発電が一層注目された。
 その上、プルトニュウムやウランを再使用出来るようになれば恒久的なエネルギーになるとも期待された。
 しかし、今回の大地震とそれに伴う原発事故で、すっかり悪役となってしまった。
  そして菅総理が浜岡原子力発電所を停止させるという事態にまでなってしまったのである。
 何しろ資源の無い国だ。熟議も無しに原子力発電を即やめろは、あまりにも拙速すぎやしないかと思えるのだが…。
 今回の事故は、津波という予測をはるかに超えた事態となったからである。まさに安全対策に決定的なミスがあったということだ。まずこの点について徹底的に検証する必要がある。今日の高度な科学技術からすれば、安全対策は様々な方法で可能ではないかと思考されるのだ
 必要性と危険性の両面から、まず十分な議論がなされなければならないのではないかと話を結んだ。
 
 実は私は、今月の27日に大阪の関西大学で講演することになっている。これは産経新聞から依頼されたのだが、11日付の社告で一般にも公開されると記載されている。
 内容は、私が通産大臣時代に石油交渉(アラビア石油問題)でサウジアラビアを訪れたが、その当時の状況やその後の日サの関係、あるいは最近激しく揺れている中東問題まで話してくれというものである。
 だから、私にとっては日本橋産業協会の講演は大学授業のようでもあった。

 話が終わって、何かご質問はと言うと、2人の方が手を挙げた
 一人の方は「質問ではないのですが」と断った上で、「学生時代、貴方は東京電力でアルバイトをしていたことがあるでしょう。実は、この間、貴方と一緒にその時働いたという人に会ったのです。くれぐれもよろしく伝えてくださいと言ってました。」
 
 今から実に55年も前のことだ。
 あの頃は、アルバイトにもなかなかありつけない、まさに就職難の時代であった。
 九段にある学徒援護会という斡旋所でアルバイト先を探すのだが、何回もあぶれて空しく帰ったものだった。
 すぐ採用されるのは自動車の運転手か、あとは肉体労働ばかりである。
 だから私は肉体労働が主で、木材運びや、中には上野寛永寺の墓掘りというのもあった。真冬、カチンカチンに凍っているお墓の土を鍬で掘り起こすという作業だが、何しろ手が
 かじかむ厳冬の中の重労働だから、終わりまで続いた者はいない。10人の学生の中で最後まで残ったのは私一人であった。
 お昼になって陽だまりの塀の隅で弁当を食べ、後は墓に向かって、もっぱら演説の練習に励んだものだ。そのころ覚えた落語や講談は、今でも私のお家芸となっている。
 ちなみに、その頃、母に無理を言って250円ずつもらって、自動車教習所に通って免許証を取得した。喜び勇んで学徒援護会に行ったが、経験が無いから駄目ですと運転手のアルバイトは、あっさり断られてしまった。
 今でも免許証を手にすると、貧しかった母が、困った顔をしながらお金を手渡してくれた光景が昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。

 そんな状況の中で、ある年の暮、私は東京電力にアルバイトで採用された。いわゆるホワイトカラー族の仲間入りをしたような気分で楽しかった。
 そんな昔、一緒に働いた人からの「よろしく」との伝言には本当に驚ろかされた。
 残念ながら、その方の名前は分らないという。もし、このホームページを見たら連絡してほしいものである。

 もう一人、手を挙げた方は、「京都御所の蛤御門前の護王神社に寄ったら、貴方がここで教育勅語についての講演をしたと話題になっていましたよ。神社の新聞に載った写真も見ました」というのである。人は色々なところで私を見ている。うかうかしてはいられないなと思った。

 数日前、八王子に住むSさんという方からメールが届いた
 「自分が小学校時代、よく父に連れられて、浅草の国際劇場で開かれた深谷骼i後援会に何度も行ったことがある。来賓の中曽根康弘氏がリュウジ君と名前を間違えて言ったことも覚えている。父はすでにいないが、機会があったらお会いしたい」とあった。
 台東区議会議員を辞めて東京都議会議員選挙に出馬して、わずか240票の差で敗れた浪人時代の頃だ。まだ29歳、怖いもの知らずの私は無謀にも、東洋一を誇る5000人も入る国際劇場を貸し切って大会を開いた。
 会費まで集めての大集会だったが、これが大いに当たって超満員、やがて続けて2回開いて一万人の集いとなった。
 ここでの大盛況が話題になって、やがて最高点当選、そして勢いに乗って無所属で国会に躍り出たのであった。そんな古い時代のことをよくぞ覚えてくれたものだと、感慨無量の思いがした。

 ある時、九州宮崎から駆けつけてくれた県会議員戸高保氏は、国際劇場で私への応援演説の夜、都内のホテルで急逝した。私は青年部の仲間たちと泣きながらご遺体を羽田空港に運んだが、そんな悲しい思い出もある。 
 前にも書いたが、戸高氏は、私が早大時代に全国遊説に出かけた時、私の演説をいたく気に入ってくれて、それ以来、亡くなる直前まで支えてくれた忘れえぬ先輩である。
 彼が私に残してくれた言葉は、今でも私の座右の銘になっている。
「誰かが、どこかで、私たちを見つめている、
  誰かがどこかで、私達を支えている、
    そこに私たちの人生がある」

 色々の人から、様々な話を聞いて、改めてこの言葉をかみしめている。


閑話休題
 孫の骭ウが、昨日、初めて這った。去年の10月生まれだが早いのかどうかわからない。妻が私の書斎に大声を上げて飛んできて告げると、私も二階に駆け上がった。
 確かに嫁に向かってほんの少し這い出した。それだけでよほどの快挙のように家中大騒ぎである。
 上の7才になる隆仁は、この子が生まれてから急に私に付き纏うようになった。
 隆仁は7年前の1月25日生まれだ。この誕生日は私にとって忘れられない日である。なにしろ私はこの次の日、大腸癌の大手術をうけたのだ。
 杏林大学病院の私の病室から、妻はいそいそと生まれたばかりの孫の顔が見たくて出かけようとする。
「おいおい、明日手術をする俺を置いていくのか」
「貴方は大丈夫ですから」
「俺より孫の方が大事なのか」
「当たり前でしょう」
 なんとも冷たい妻の背に、聞こえないように毒づいたものだ。
 確かに妻の言うようにあれから私は元気いっぱいで、大丈夫ではあったが…。

 孫の一挙手一投足で家中が大喜びする。
 私にはこの他に3人の孫がいる。安希与、香瑠、麻紀だ。皆いい子で、いつも「おじちゃん」と私一辺倒だ?

「這えば立て、立てば歩めの親心」
 今ではあまり聞けなくなった言葉だが、そんな思いで暮らせる私は本当に幸せ者だと思っている。

言いたい放題 第166号 「うれしいこころ」

 朝食をとって2、3時間して、急に胃に痛みを感じ、しばらくするとパンパンに膨張した感じで我慢できなくなった。やむなく女房と豊島にある山口病医院に直行した。
 血液検査、CT撮影、そして2時間も点滴を打って、ようやく落ち着いた。
歳を重ねると、いままで何でもないものにアレルギーを起こしたりすることがあるらしい。
 この病院の山口明志先生ご夫妻とは、折々、食事をしたりと、長いお付き合いで、家族も含めて何かあるとまず診察をお願いする。
 一番頼りに出来る、私が勝手に決めた主治医である。いよいよ、大変な時、例えば七年前の大腸癌の手術のような場合は、杏林大学病院の松田博青先生に委ねる。頼れる医者の存在ほど大切なものはない。
 今回の検査の結果は、どう考えても良い筈がない。今夜あたりから断酒と覚悟を決めていたのだが、なんと、どれも百点満点という。先生や女房も驚いたが、一番びっくりしたのは私自身であった。
 5月の連休以来、暴飲暴食が続いていて、そろそろ、どこかで歯止めを掛けなければと思っていた
丁度、色川武大の「寄席放浪記」や「なつかしい芸人たち」を読み終わった時で、売れた芸人達の行末が、糖尿病や肝硬変で亡くなる場合が圧倒的に多く、私はどこかで不安を抱いていたのである。
 一番の心配は血糖値とガンマーGTPだ。これはお酒の影響がモロに出るのだが、なんといずれも合格だ。肝臓に関する数値、GOT、GPTなども全部正常値、CTの所見も異常所見なしである。
 一体、なぜこんなに数値が改善されたのだろうか。よく歩いているが、もしかしたら最近、また始めたタップダンスの練習の成果かもしれない。
 その夜、もちろん仕事がらみだが、東京タワーの下にある「とうふ、うかい亭」で会食会があり、私は安心して痛飲したことは言うまでもない。

 ちなみに、山口病院では、一時間ドック検診というのを始めている。
仕事の忙しい人の為に、採尿、採血、心電図、CTによる全身断層撮影などを次々に行い、わずか一時間で結果を出すのである。
 ある時、孫が急病になって救急車に乗せたのだが、さてどこの病院で扱ってくれるのか、随分時間がかかった。ようやく受け入れてくれる病院に着くと、まず、「一日数万円の個室でいいですか」と聞かれ、その上、びっくりするような額の預り金を要求された。預り金はどこでも普通だが、あまりに高い金額だったのだ。
 山口病院は救急労災指定病院だが、そんな無茶なことは言わない。なによりも患者の親身になって考えてくれる。もっとも良心的な病院だと私は思っている。
 ただ、今の国の医療行政に問題があって、こうした中堅の、いい病院が経営に行き詰まって、次々と姿を消しつつあるというのが現状なのだ。
 私が、今現職なら、こうした問題に精一杯取り組めるのにと残念な思いである。
医療法人社団 育生会 山口病院  豊島区西巣鴨1の19の17
                     電話 3915−5885

 近頃は、各団体の総会が花盛りである。全てに顔は出せないが、日ごろお世話になっている会には、出来るだけ出席するようにしている。
 21日は、ビューホテルで開かれたスポーツ用品協同組合と文京区のラジオ体操団体と、何か所かまわって、7時半、白山に在る餃子屋「三幸園」(白山5−33−19 3816−1684)に寄った。
 あらかじめ声をかけていたので、中屋都議会議員はじめ文京区の仲間たちが待っている。
十人も入ると満員になる小さな店だが、夫婦二人だけで切り盛りして、手も早く、レバニラ炒め、中華そば、特に焼き餃子は天下一品だ。
 
 昔、もう30年も前のことだが、握手戦術で、この旧白山沿いの道を登りながら選挙運動をしていた。
 丁度、都営地下鉄線白山駅入り口近くの角に三幸園があって、その壁に私のポスターだけが一枚、如何にも大事そうに貼られていた。
 嬉しくなって思わず店に飛び込むと、如何にも好人物の夫婦が、満面の笑みをたたえて私を迎えてくれた。
「この選挙で当選したら、私は必ず大臣になる。まっ先に大臣としてこの店に来ます」
 相手もびっくりしたと思うが、今考えれば、随分大胆なことを言ったものである。
 やがて当選を果たして、私は海部俊樹内閣で、予定どうり初の郵政大臣になった。SPや秘書官を引き連れて、凱旋将軍さながらにこの店に乗り込んだものである。
 54歳、まさに働き盛り、涙が出るようななつかしい思い出に残る1ページなのである
 
 店には往年の美男力士?元神幸親方が待っていた。彼には声をかけていなかった。たまたまこの店で食べていて、後で深谷が来ると聞いて、ずっと待ってくれたのである。
 その時、同席していた田中善彦さん(かってこの地域で私の後援会長であったが、残念ながら今は高輪の方へ越している)が、なんと酒代まで置いていっくれたというではないか。

 にぎやかに話が弾んで盛り上がった。
「俺もこの頃、だんだん物忘れが激しくなって、この間など、好きなカラスミの名がどうしても浮かんでこない。深夜だったが、何とも気になって眠れない。確かイタリアンパスタの本に書いてあったと、一階の書斎まで降りて行って確かめた」
 そんなことを話していたら、一人のご婦人が、突然、カラスミを持ってきてくれた。
 一昨年の選挙の時、この店の手前に私は事務所を構えた。その大家さんが菅野裕良さんだが、今夜の会に呼んでいた。
 今の私の話を聞いて、直ちに連絡して、わざわざお母さんが届けてくれたのであった。

 次々と出される熱々の餃子の美味に舌鼓身を打ちながら、剣菱の銘酒を生でぐいぐいと呷って、なにしろ気の置けない仲間たち、まさに与謝野鉄幹の詩にある「痛飲三斗この一夜、いまだ酔わずと笑いつつ・・・・」であった。
 
 帰り際に、「お勘定を」と言うと、「菅野さんから頂きました」という。
 私は、たいしてお金もない時代から、いわゆる下町気風で自分で払うことが当然と思ってきた。彼の細かい配慮に、なんだか胸がじーんとしたものである。
 何年も前に、義父が96歳で逝ったが、酔うといつも「うれしい心」と言うのが口癖であった。
 この夜は、まさに私にとって「うれしいこころ」であった。 

言いたい放題 第167号 「きれいごとの裏で」

 東日本大震災から、すでに二か月が過ぎているのに、被災者の多くが絶望の渦中にあり、混乱のままで、先行きが一向見えず、救われない思いで暮らしている。
 何回言っても仕方のないことだが、一体、政治や行政は何をやっているのかと腹立たしい限りである。

 二十二日、福島県で四代続いた老舗松渓苑の社長夫婦と私の家族とで会食した。
 この旅館は二本松の岳温泉にあり、私はスキーに出かけた折に数回泊って、国体の選手だった社長と一緒に滑ったこともある。余談だが、私のスキーは荒っぽくて猛烈な速さだから,「とても着いていけない」と言われて、相手が国体選手だけにちょっと優越感を抱いたこともある。
 ある日、週刊新潮を開くと、なんとそのグラビア写真に、大被害を受けた旅館の惨状が載っていた。早速,とりあえずお見舞いだけでも伝えたいと連絡をとったのが縁で、この会食となったのである。
 
 一般に、災害の後の報道は、日本人の我満強さや、助け合いの素晴らしさなど、きれいごとばかりが多いいが、話を聞いてみると現実はそんな生易しいものではないようだ。
まず、一番頼りにしていた銀行の態度が、大きく豹変してしまったという。共に頑張ってなんとか助けよう、という誠意は全く感じられず、すっかり心が折れてしまったという。
 確かに、大地震で大浴場や露天風呂など九つの風呂がすべて壊れ、客室の天井が落ち壁も崩れた。修繕費など莫大な費用が掛かる。その上、福島原発の風評被害で、客足は何年も戻らない可能性がある。とても返済は難しいと銀行は判断して尻込みし「返済計画が無ければ」とそればかりを繰り返した。
 百五年も続いた老舗だ、銀行にもかなりの利益を与えてきたではないか。
とうとう、「頑張ろうという気持ちが折れてしまった」のである。
 
 それだけではなく、今、福島の人は色々な差別を受けているという。福島県人ということだけで縁談まで破談になった人がいる。疎開した先で、子供たちがいじめにもあっている。デイズ二−ランドでは駐車していた福島ナンバーの車が、傷つけられたり壊されたりした。こうしたことが現実に起こっているのだ。
 ああ、それでなくても必死に頑張っている人達に対して、何たる仕打ちか。同じ日本人として恥ずかしい。

 この日の宴は、最初は深刻な話から始まり、それでも次第に和んで、最後はすっかり打ち解けて、明るい表情で帰られた。少しは役立ったのだろうか・・・。

言いたい放題 第168号 「無責任な学者の論文」

 二十七日に関西大学の講義があるので、このところ、集めた膨大な資料に目を通すことで忙しい。大学の授業はわずか九十分だから、格別大変な準備をするわけではないのだが、この際、自分の為にしっかり調べたいと思ったからである。
 
アラビア石油は、かって2000年に採掘権の更新の時期を迎えたが、その交渉に通産大臣であった私がサウジアラビアにでかけたことがある。その前後の経緯を、中東事情も交えて講義して欲しいというのが今回の依頼である。

 アラビア石油は、日の丸太郎といわれた山下太郎が1958年に起こした会社である。サウジアラビアとクエートとの中間地帯にあるカフジで、なんと一発で石油を掘り当てた幸運なスタートで、以来40年も操業を続けてきた。
 その契約期限が切れるので、何とか更新したいと必死の努力が為されていたのである。
本来、この会社は一民間会社だから、国が直接交渉に乗り出すのはおかしいことなのだ。しかし、アラビア石油は日本の資金で起こした最初の石油採掘会社だし、何よりも日本とサウジアラビアの友好の象徴的存在であったので、あえて国も対応しようということになったのである。

交渉は極めて難航した。我々もかなりの好条件を提示したのだが、相手はなんとも無理な難題を押し付けてきた。
アラビア半島北の内陸部から海岸部まで、鉱山資源を運ぶために1400キロにわたる鉄道を引いてくれと言うのである。しかも、これらを全部日本が建設し贈与してくれというのだから、厚かましい話ではないか。
日本側からは、鉄道建設に協力するために国際協力銀行から5000億円の融資をさせる、その金利は負担する。更に、今後十年間、6000億円の投資実績を創るという提案をした。
何度も首脳陣との会談を重ね、最後はリヤドから100キロ以上も離れた砂漠のテントに居るアブドラ皇太子(現国王)を深夜訪ね、直談判に及んだのだ。しかし、どうしても鉄道建設無しでは了解出来ないということであった。
 建設に2310億円,維持費に毎年110億円、これを25年も続けてくれと言うのだ。そんな資金を国民の血税で払うことなどできない。話にならない。私は、断固「NO」ということにした。
 この時の私の決断は、おおむね各界から評価された。
大事なことは、この問題が不調になっても、サウジアラビアとの関係にひびが入らぬようにすることだ。私は執拗なまでにその事にこだわり、会合の度に何度も確認し、アブドラ皇太子やナィミ石油資源大臣からも確かな言質を得た。

あれから、もう12年がすぎた。
 数々の当時の資料を見る中で初めて発見したのは、いわゆる学者と言われる連中の無責任な一方的な批判の論文であった。
 あの頃、そんな批判論文を知っていれば、絶対に黙ってはいなかったのだが、今改めて読んで腹を立てている。

中でも、特にお粗末でいい加減だったのが、中央大学の伊藤冶夫氏のものである。
やたらとアラビア石油の社長贔屓で、「危機を救う為の土壇場の懸命の努力もむなしく駄目になった。社長のその痛恨の気持ちがわからないか」と書いてある。
当時、すでに話題になっていたが、サウジ側が鉄道は可能だと受け止めた背景には、この社長の軽率な失言がもとにもなっていたのだ。
また、この時、仮に更新出来たとしても、それは単なる契約延長ではないことも知らないようであった。実は、更新後のサウジ側の計画では、アラビア石油の100%出資の子会社を作らせ、サウジの役員を入れ、これを現地操業会社にしようというものであった。いわば事実上、採掘権の引揚なのである。
 更に、サウジ側の全く有利な条件を日本がのめば、その影響はたちまち各所に及ぶ。3年後に更新期日となるクエート、2017年のインドネシア石油、2018年のジャパン石油開発と、その度に、これが前例になって日本は追い込まれること必定なのだ。
 しかも、日本が安易な対応をすれば、石油メジャーはじめ輸入諸国から大きな反発と批判を招くことにもなる。

 当時のアラビア石油の年間売上げは約2000億円であった。その内、サウジとクエイトへのロイヤリティ、税金、操業経費等で90%を占めている。だから利益は―18億円だ。
 日本側は、外国だから税額控除で、なんと40年間で4.4億円にすぎない。
サウジアラビアの石油を発見したのはアメリカだ。その会社がアラムコ石油だったが、これもとっくにサウジの会社になっている。つまり、もう外国の会社には任せないで、すべ
て国有化するというのがサウジ側の基本方針だったのである

私が最も配慮したのは、採算性の取れない鉄道計画に、国民の血税は断じて使えないということだった。学者はそんな深い考察力は無い。鉄道ぐらい敷いてやれだからあきれる。

彼が一番批判したのは、私が「契約更新が出来なくても大きな影響はない」と断言したことであった。
「軽く見ている、甘い・・・」の連発で、さらに「深谷大臣は、選挙を控えて実業界への気兼ねもあって何もできない」とまで書いている。そんなことは夢にも考えていなかったことで、学者の想像力の豊かさ?に思わず笑ってしまった。
彼の決定的な誤りは、「これでサウジとの関係にヒビが入った。日本離れが懸念される」と言う発言だ。
前述のようにあれから12年、日本離れどころか益々交流は密になっている。石油輸入量は増加の一途をたどり、あの頃一位だったアラブ首長国連邦と入れ替わり、今や日本への輸入量はトップになっている。

とまあ、そんなこともあって、今度の大阪行きは話題も尽きないから、私にとっても楽しみな講義になると思っている。 

言いたい放題 第169号 「仕事と遊び心」

 かねてから依頼を受けていた大阪にある関西大学の講義を無事に終えてホッとしている。
 5月27日朝8時、東京駅を出発、大学で経済学部長、教授らと昼食を共にし、1時から大教室で1時間半熱弁をふるい、終わるや待ち構えてくれた大阪の友人、松本さんの車で一路京都へ。かなり疲れていたが、健康のためにも商店街を1時間散歩、そして、今回の目的の一つ、寺町三条にあるすき焼き店「三嶋亭」にあがった。
 ここは明治6年創業の130年続く老舗で、小説などにもよく出て来る、女房に言わせれば一度は行きたい有名店だ。
 江戸っ子の私は、亡父直伝のすき焼きの作り方が得意だが、京都の作り方は独特で、熱した鉄鍋に、いきなり砂糖を入れ、そのまま最上の肉をのせて、この店伝来の秘蔵のタレをかける。
 溶いた玉子で食べるのは同じだが、その味のすばらしさは、まさに筆舌も及ばぬといった塩梅である。
 今回の講義の手配をしてくれた産経新聞の巽記者(この人は私が通産大臣時代の番記者)と、気のおけない人達だけに、談論風発、途中仕入れた持ち込みのワイン(なんとオーパスワン)をたちまち2本も空ける勢いであった。
 「帰りの電車は京都発9時8分、あと1時間ちょっとしかなかったが、「一力」裏のミュージックバー「とも」へ直行。このマスターはギターでラテンものを歌わせたらまず右に出る人は居ない。
 私の個人的催しにもギター片手に京都から駆け付けてくれるが、酔った私とのやりとりが絶妙ともっぱらの評判なのだ。
 一人一人が得意ののどを披露して、たちまち時間いっぱい。タクシーで駅に駆け付けようやく新幹線に間に合った。

 ところで肝心の講義だが、大教室に学生と一般人を含めて、ざっと300人、毎週行われている中東講座では、もちろん一番の大入りである。
 私のテーマは、2000年1月、通産大臣として、アラビア石油の契約更新のために、直接現地に乗り込んだが、その折の顛末を語るというものであった。
 すでにその頃、サウジアラビアの基本的方針は、外国による採掘は一切廃止して、全て国営にするというものであった。
 かの地の石油を最初に発見し、サウジを今のように隆盛に導いたアメリカの会社も、とっくに接収され、それが現在、一手に独占しているサウジアラムコ会社である。
 そこで彼らは、日本に対して鉱山鉄道を建設し、その維持も含めて、全ては日本が行い、最後にはこれを贈与せよと無理難題を提案してきた。
 建設費は約2310億円、維持費は毎年110億円、これを25年も続ければ5000億円を超える負担になる。
 我々は5000億円にのぼる資金を国際協力銀行から融資させ、利子補給を行うと好条件を提案したのだが、相手は一歩も譲らない。
 アラビア石油は、日の丸石油といって、日本の資金で採掘に成功し、40年続いた会社で、いわば日サ友好の象徴ともいうべき存在なのだが、一民間企業である。
 その契約更新のために、莫大な血税を使う訳にはいかない。最後は、私は「NO」という決断を下したのであった。
 ただ、その時、最も重視したのが、日サのこれまでの良好な関係が損なわれないようにするという点である。
 日本にとって、アラ石からの石油量は、全輸入量の3.5%にすぎない。日本での消費の5%程度だ。
 しかし、当時、日本へのサウジからの輸入量は、アラブ首長国連邦(UAE)に次いで2番目に大きく、この関係を継続させることは、日本にとって絶対条件ともいえた。
 私はこの点に関しては、アブドラ皇太子(現国王)やナイミ石油資源大臣との直接交渉で、大丈夫だと確信を持っていた。
 契約更新の交渉は決裂したが、あの頃必死で努力したことが大成功であったことは、今日の状況を見れば明白になっている。

 現在、日本とサウジとの関係は一層良くなっている。両国首脳の相互交流や、経済文化面、人材育成計画などいずれも順調である。
 なによりも、石油輸入量はさらに大きくなっている。
 すなわち、当時トップであったUAEと入れ代わり、サウジの日本の輸入量は3割を占めている。
 サウジによって、独自での鉱物鉄道と旅客路線は実現の方向にあり、全長2419qの鉄道が2013年までにいずれも開業予定となっている。日本の三井物産も発注を受けている。
 もともと1973年の石油ショック以来、サウジは巨大な黒字財政になっていて、自国で何でも出来る体制であった。
 何のことはない、あの時うっかりしていたら、まんまと日本の血税で鉄道建設の肩代わりをさせられるところだったのである。

 今、日本では、大震災以来、原子力発電についての危機感が広がり、新たなエネルギー問題が起こっている。
 私自身は、菅総理の、例えば浜岡原発停止や一連の方向転換ともみえる軽々しい発言には眉をひそめている。世界の動きを見ても、原発の存在をただ否定する状況ではない。
 何故、安全神話が崩れたのか、本当の安全性をより科学的に確保させるなど、そこをもっと究明していく必要があるのではないか。必要性と危険性についての熟議が為されないままの方向転換は、世論に迎合するだけで、将来の日本にとって必ずしもプラスになるとは思えない。

 1時間半という長い講義が終ると、一斉に盛大な拍手が起こった。一般に授業が終って拍手など起こる筈もない。嬉しかった。
 学部長等と控室に戻る為、エレベーターに乗ると、「握手して下さい」と何人かの女学生が手を差し伸べる。
 昔、どこかでこんな風景があったと思い返すと、かつて中国の北京大学などで講義をした折、そんな風景があった。
 ある日本の週刊誌で、「中国美人女子大生に聞く」と題した「知っている日本人の名前を挙げよ」とのテーマで、グラビア写真が載っていた。その中で、何とキムタクに並んで、深谷隆司の名前があってちょっとした話題になったこともある。はからずも関西大学で、歳はとっても、まだまだ女学生に人気があるぞと、一人秘かに満足したのであった。

 あわただしい一日だったが、仕事とちょっとした遊び心を満たしてくれた、私らしい素敵な日帰りの旅であった。

言いたい放題 第170号 「ツケは国家国民に」

 フランスで開かれている主要国首脳会議 (G8サミット)で、なんだか菅総理、妙に楽しげに張り切っていた。なにしろ、オバマ大統領はじめ、世界をリードしている有名指導者たちと対等に話し合い議論できるのだから、自分もすっかり偉くなったと思って嬉しくなるのは当然のことかもしれぬ。
 つい数日前まで、国会で責任を追及され、立ち往生していたとは想像できないくらいだ。
 
 ところがその頃、日本では例の福島原発での海水注入について、嘘だ本当だとか、さっぱり訳の分からない話で大騒ぎになっていたのである。

 この騒ぎの経過をもう一度振り返ってみよう。
 震災翌日の3月12日、原子炉を冷やすために、真水が無くなった後、海水を注入することになった。これは東電のマニュアル通りの判断であるが、何故か一時期、この決断は菅総理の政治主導だと彼の功績のように言われた。勿論政府筋の浅知恵で宣伝されたと思われるのだが・・・・。

 ところが、すぐに、その嘘はわかってしまった。実は総理には連絡せずに東電側が対応していて、そのことを知って、事前に知らされていなかったと激怒し、逆に55分も中断させたというのである。
 更にこの話には尾ひれがついて、斑目原子力安全委員長が「海水を注入したら再臨界の危険がある」と総理に進言し、その為に海水注入が中断されることになったという。
 このことが報道されると、今度は斑目委員長が「そんなことは言ってない。侮辱された」とこれまた大騒ぎ、「可能性はゼロではないと言ったのだ」と訳の分からない事で一段落となった。
 
 ところが、話はそれだけでは収まらなかった。
 26日になって、海水注入は一度も中断されることなく継続されていたと東電が発表したのだ。どうやらこの発表が真実のようである。
 海水の注入について、総理の了解が得られていないので、本社と発電所がテレビ会談を行い、協議の上中断を決めた。
 しかし、福島原発の吉田昌郎所長は、「ここで止めたら最悪の事態になる」と判断してそのまま継続させたという。
 吉田所長は剛毅な人で、これまでも本社幹部の誤った指示に対して「やってられんわ、そんな危険な事、作業員にさせられるか」とわざと聞こえよがしに言ってのけたこともある。
 不確かな知識で大騒ぎして混乱させるリーダーと、それに対抗できないエリートたちに、現場で命がけで頑張る所長の憤懣やるかたない思いはわかるような気がする。
 事実、大方の声は、所長の判断が無かったらもっと大きな事故になっていたのではないかという点で一致している。
 しかし、問題なのは、なぜ、こんな重大なことが長期にわたって報告されていなかったのかで、仮に技術的には正しい判断だとしても、責任は問われなければなるまいと私は思っている。

 いずれにしても、こうなってくると、菅総理が国会で答弁したことは一体なんだったのかということになってくる。その場その場で自分の都合の良いように言いくるめて、ただやり過ごしてきただけではないか。
 これでは国会軽視、いや国民に対して冒涜と言っていい。断じて許されることではないと思う。
 国会内で、今、与野党を問わず、菅総理に内閣不信任案を提出しようという動きがあるが当然のことである。ただ困ったことに提出する側にも色々と異なった思惑があって、必ずしも足並みが揃っていないようなのである。

 サミットで菅総理は、オバマ大統領やサルコジ仏大統領に、「原発事故に関する情報は最大限の透明性をもって全て提供する」と胸を張って発言したが、すべての日本における状況を正確に知っている彼等は、おそらく、内心呆れ果てていたに違いない。

 そのサミットで、菅総理は色々と恰好の良いことを発言している。大臣として度々国際会議に出席してきた私から見れば、そんなことを無責任に言ってよいのかとハラハラするばかりである。
 発電量に占める自然エネルギーの割合を、2020年のできるだけ早い時期までに20%台に前倒しにすると大見得を切った。いままで2030年までと彼は言っていたはずだ。
 私の通産大臣時代から、自然エネルギー促進の大号令を掛けてきたが、コストや技術の面でなかなか進まず、現在、大型の水力を含めてもまだ一桁台でしかない。
 目標を早めるということは悪いことではないが、なにか具体的な根拠があるかと言えば、なにもある筈がない。要はペーパーの上で単に2030を2020と変えただけなのである。
 また、つい調子に乗って、来年、日本で国際会議をやろうと提案したが、それまで自分は総理として残っていると考えているのだろうか。

 いずれにしても、菅総理の軽々しい言動は困ったものだ。国内だけではなく国際社会でも平気で思いつくまま勝手なことを言うのだから始末が悪い。そのツケは国家国民にいずれは帰ってくることを、我々は覚悟しなければならないのだ。

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