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新しいホームページ披露口上

HUKAYAsan_illust_A.jpg 「東西、トーザイ・・・この度、旧来の「深谷隆司ホームページ」をやめ、新しいスタイルで再出発することに相なりました。何卒みなさま、よろしく御贔屓の程、お頼み申し上げます。」



 国会生活超多忙の中、出来るだけリアルタイムにご報告しようと、ブログを一日何回もいれかえたり、様々なプログラムを満載したり、随分努力を重ねたものです。


 マスコミにも取り上げられ、国会議員のホームページとしては、常にベスト3にあげられるほどでした。


 一方、このホームページは、選挙戦でも有効と秘かに考えておりました。

 何しろ、私の選挙区は、有権者の入れかわりの激しいところで、例えば中央区など、区民が4年間に4割もかわるといった塩梅です。

 おまけに高層ビル林立、セキュリティの関係で、新聞やチラシも配れず、政治家の意見や歩みをお伝えすることが出来ず、ほとんどお手上げの状態でした。

 ホームページなら見てくれる、そう確信して頑張り、選挙中は、78千のアクセスがありました。


 しかし、結果は御高承の通りで、あまり効果はなかったようでした。



 張り合いないネ・・・。もうやめようかとも考えたのですが、「続けて」という嬉しい声も多く、それなら、装いも新たに肩のこらない、気楽なものにして再出発、つまらぬ欲は持たないで・・・と今は考えているのです。


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 「戦いすんで日が暮れて・・・」


佐藤愛子さんの著書ではありませんが、今、この題名が私の心境にピッタリです。



 力(りき)まず、しかし、本気で語りたいと思います。


 よろしかったら、御覧いただき、時にはお声をかけて下さい。御健勝をお祈りし、披露口上と致します。

言いたい放題 第1号 「非情」と「忍耐」

 中川昭一氏の急逝は大きな衝撃だった。

 56歳という若さは、26年前に自殺した父中川一郎氏の57歳とオーバーラップして、連日、マスコミをにぎわせた。

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 私は直後の自民党政経塾で、この問題に触れ、「政治家を志すもの、世のリーダーを目指すものは、この一連の動きの中から、世の中の非情さ、これに対する忍耐を学べ」と諭した。


 例のG7(主要7ヶ国財務相、中央銀行総裁会議)の折の中川氏の酔っぱらい会見は、国内はもとより、世界の顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、これでもかこれでもかとあの恥ずかしい映像を送り続けたのは日本のマスコミであった。

 自ら喧伝し、本人は勿論、日本のイメージを悪くし、傷を大きく拡げたのは、むしろ、日本の報道機関ではなかったろうか。

 中川氏の醜態ぶりは擁護しようもないし、その後の衆議院選挙で、自民党惨敗の要因の1つともなって、私自身にも不快感が残っているが、それにしても、「けしからん」の大合唱は異常なものであった。

 ところが、亡くなった途端、手の平を返すように報道の様子が一変した。「保守の若手論客」と持ち上げ、「惜しい人を失った」一色なのである。

 おまけに、2代にわたってその死に少なからぬ影響を与えたはずの鈴木宗男氏まで、涙の会見である。


 人の世の非情さを痛感したのは、私一人ではなかったのではないか。



 一方、政治家あるいはリーダーたるもの、この非情さをまず充分認識し、常に、それが当たり前と覚悟を決めていくことも、又、重要と教えられたような気がする。

 政治家はこうした非情さを乗り越えて、尚、目的に向かって進む忍耐心が肝要と強く感じるのである。

 近頃、多くの政治家に忍耐心の欠如が見られる。わずか一年間で総理の座を投げ出した2人もそうだ。

 ちょっと苦しかったり、批判をあびると、自ら求めた職責も全うせずに逃げ出す。国の存亡に生命をかけるべき立場の人が、こう軟弱ではたまったものではない091010政経塾1.jpg


 政経塾の塾長として、これから、政治家を目指す、あるいはリーダーとなろうとする塾生達に、「世の非情さ」と「忍耐」を教えた所以である。

 「中川氏を反面教師とせよ」と語ったが、少し、私も非情であったかもしれない。




 

言いたい放題 第2号 一層安っぽくなったノーベル賞


 「えぇー、オバマ氏がノーベル平和賞。」10月10日朝刊を見てびっくりした。
 だって、バラク・オバマ氏って、米大統領になってまだわずか9ヶ月ですよ。


 ノルウェーのノーベル委員会の受賞理由は、「国際的な外交と諸国民の協力を強めることに対して並外れた努力をした。特に核無き世界を目指すとする理念と取り組みを重視する。」ということだったが、何か具体的な成果はあったかと考えると、正直何もない。9ヶ月では答えの出しようもないというのが実際だ。

 してみると、ノーベル賞とは、実績に対して出すものでなく、これからへの期待ということで決まるというのだろうか。
 確かに、大統領選挙を通じて、オバマ氏は「チェンジ」という言葉と、「イエス ウィ キャン」の2文字を連呼し、これがいかにも目新しく、全米の国民を熱狂させ、世界中に木霊した。
 元来人種差別の国アメリカで、その壁を破って、初の黒人大統領になったことは、素晴らしいと思う。
 しかしキャッチフレーズ造りが上手で、演説が上手い、容姿がかっこいいという人なら、世界中にごまんといる。(そのキャッチフレーズや演説だって、専門のライターがついてのことだが・・・)

 やはり、今、世界の話題の中心、売り出し中の米大統領ということが受賞の決定的なポイントとなっていることは確かである。


 プラハでの彼の演説、「核兵器を使った唯一の国として、核軍縮へ行動する道義的な責任がある」は如何にも正論には違いないし、歴史的な名演説と評価する人は多い。
 しかし、その核兵器を使われた不幸な国日本への米国謝罪など皆無ではないか。
 あの第二次世界大戦の折、広島、長崎に投下された原爆で、我が国の同胞約21万人が一気に殺され、後遺症で苦しむ人々は数え切れない。
 第二次大戦で日本が敗れて後、あの東京裁判では、勝った国の判断で、日本人のA級戦犯7名が処刑され、実際に罪のない人も含めて約1000人が断罪され死に追いやられた。
 戦争責任が問われたことに不服を言うのではない。しかし、原爆を投じた人、命令をした人、それを行った国は、何のおとがめも受けていないではないか。一体こんな矛盾が許され、歴史の流れの中で埋没されていいのだろうか。
 本当に責任があると思うなら、オバマ氏はまず被爆地を訪ね、原爆ドームを見て、その悲惨さに、頭を垂れて謝罪の一語ぐらい言って欲しいものだ。


 今回、オバマ氏の名は下馬評にも全くなく、まさにサプライズ受賞であった。

 記者団から「アフガニスタンとイラクで戦争する米軍の最高司令官である大統領を、平和を築く者といえるのか」との質問も出たとのことだが、もっともなことである。
 おそらく一番驚いたのは、オバマ大統領自身ではないか。御本人も、ホワイトハウスで記者団に、これは私が成し遂げたことに対してではなく、行動への呼びかけとして受け入れる」と微妙な発言をしている。


 米国は、「包括的核実験禁止条約」(CTBT)をまだ批准していない。今回の受賞のもう一つの理由は、地球気候変動問題で建設的役割を果たすようになったということだが、目下のところ、温室効果ガス排出大国の責任を米国は全く果たしていない。
 ノーベル賞にケチをつけるつもりはないが、どのマスコミも大礼賛ばかりでどうも気にくわない。我が国の鳩山首相も、「オバマ氏が先導して世界が変わってきたと感じ、本当に嬉しい」と、手放しだ。
 甘い、甘すぎると私は思う。

 今後のアメリカの核軍縮の取り組みは、必ず露・中と対決しても負けない状況の中でしかあり得ない。
 温暖化対策も、自国の御都合を中心にしか考えない。
 これがアメリカは勿論、世界の国々の態度であることを忘れてはならないと私は思っている。

言いたい放題 第3号 一途に咲いて

 文京区ビーチボール大会に久しぶりに参加した。

091018入場風景.JPG 選挙以来少し出不精になって、出来ることなら会合を避けたいと思ったりしている。

 随分長いこと、朝から晩まで、あまりに多くて真っ黒な予定表に、追われるように働いてきた反動かもしれない。もう一つは、選挙のあれこれをいちいち語ることが正直億劫(おっくう)で気が重いからだ。


 ビーチボールは、富山県朝日町が発祥の地で、誰でも何処でも出来る平易さから、あっという間に全国に広がった。特に東京の中では文京区、台東区がその中心になって盛んである。

 私は縁あって、当初から応援を続け、今回のこの大会も「深谷杯争奪大会」と銘打っている。

 その上、文京区ビーチボール連盟の会長は、20年近く私の秘書を務め、ついにこの間の都議会議員選挙で4年ぶりに返り咲いた中屋文孝君である。これでは惚(とぼ)けて欠席という訳にはいかない。
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[深谷杯の返還]

 会場には、800名を超える女性を中心とする選手達がつめかけて、落選したばかりの私の風情はどうかと注目しているように・・・、私には見えた。


 挨拶に立った私は、まずビーチボール大会の成功を期待していると語り、次に今、私にとって一番苦手な選挙についてふれた。
 「過日の選挙で、ビーチボールのメンバーには献身的な支援を頂いて感謝あるのみ。にもかかわらずお応えできなかったことをお詫びする」。
 続いて、自分の好きな宗教詩人坂村真民の詩『花』を引用して、今の心境を語ることにした。

「花には散ったあとの悲しみはない。ただ一途に咲いた喜びだけが残るのだ。」

 戦いにやぶれたことは無念だが、私は悲しまない。長い年月、国の為に一途に働いたことを誇りに、喜びにしている。
 「これはビーチボールで競うあなたたちにも共通している。勝ち負けよりも、如何に一途に努力したか、だけが大切なのだ」と結んだ。

091018挨拶.JPG 私は選挙結果が確定したとき、大勢のテレビカメラの前で、報道陣に向かって「この度の選挙で、みなさんの応援のおかげで、為すべき事を全力で果たし、いささかの悔いもない。選挙そのものも百点満点、結果は無念だが、今の心は明るく爽やかだ」と語った。

 自民党の議員のうち、3分の2が落選するという大敗北で、テレビに映し出されたその光景は、ほとんどが涙と弁明の暗いものであった。

 どんな時でも、明るく爽やかに・・・。私が頑なに守り通した姿勢であったが、「それが良かった」という反応も多かったように思う。


「花には散ったあとの悲しみはない。ただ一途に咲いた喜びだけが残るのだ。」

人前で初めて語った詩だが、もしかしたら、実は私自身に語りかけていたのかもしれない。

言いたい放題 第4号「人の心はいろいろ」

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〈どこも満員盛況だったが・・・。〉


 前回、「落選の折、私がテレビに向かって明るく爽やかに語って好評だった」と書いたが、逆の見方をした人もいたようだ。
 「みんなが悲しんでいるのだから、深谷さんも涙の一つも流したら・・・」と、伝えてくれた親切な人が居たのである。
 なるほど、人の見方は色々だと改めて思った。

 明るく爽やかに装っても、本当は私の心の深い部分はもっと複雑で、キザに言えば、血の涙を流していたのだが、そんな心を「理解してくれ」という方が無理かもしれない。

 47年、政治の世界だけに生きてきて、いよいよ総仕上げと満を持した時の失敗だけに、その挫折感は大きかった。
 この4年間、私はテロ対策特別委員長や、エネルギー戦略合同部会長として、日本の安心安全の為に、全力投球してきた。また、地元への貢献について、誰にも異存の無いところと自負している。
 しかし、相次ぐ総理大臣の無責任な交代や、お粗末な言動、大臣が次々起こす不祥事、更にこれを喧伝するマスコミ報道で自民党はすっかり国民から嫌われた。
 自民党は300議席から、実に3分の1となってしまったのだ。
 民主党の大躍進はいわば敵失によって、なのである。

 日頃、政治への関心も、選挙さえ行かぬ人々が、無党派層と称され、続々と投票所に行き、民主党を選び、その党の、名も知らぬ人の名前を書く・・・、何とも無責任、あきれたことだ。
 今回当選した民主党の新人は143名、その顔ぶれは、よく言えば「多士済々」、悪く言えば、「玉石混交」だ。いずれにしても、昨日今日名乗り出た人が、「大量得票で当選」では、長年苦労してきた政治家はたまったものではない。
 「これで良いのだろうか」
 そんなことを繰り返し思い、本音は明るく爽やかであろう筈がないのである。

 「涙の一つも流したら・・・」、私の一番好まぬ言葉だ。
 「男は人前で泣いてはならない」、「恥を知れ」、これは今は亡き父の厳しい教えであった。

 確かに近年、政治家で、人前でやたら滂沱(ぼうだ)の涙を流す人が多くなったように思う。
 大阪府の財政再建意見交換会で、橋下知事が市町村長を前に大泣きした場面があった。皆びっくりしたが、その時の出席者の感想は「泣かれると弱い」であった。
 相手を切り捨てる、非情といわれた小泉総理が泣いて、再び人気上昇となったことも記憶に新しい。
 近頃は、意図的に泣きのパフォーマンスを繰り広げる人も居る。
 本来、涙は女性の専売特許で、可憐で美しいが、男性の同情を集めようとする涙は、未熟で幼稚で、もの悲しい。

 勿論、男も泣くことはある、あってもおかしくない。
 安倍晋太郎氏は、中曽根裁定で総理になれず、家に帰り泣いた。安倍氏が外務大臣の時、誘われて東南アジア訪問で御一緒したが、おだやかな紳士であった。病に倒れ、悲願を果たさすことはできなかった不運な政治家の一人である。
 渡辺美智雄氏は、小沢一郎氏に裏切られ身内の前で泣いたという。総理の座を約束していた小沢氏が、直前に雲隠れしたからである。必死になって電話をかけまくり、彼を捜している現場を私は目撃している。
 しかし、いずれにせよ人前で涙を見せることはなかった。

 人の情けに涙することも悪いことではない。私なども人の情けに弱い。芝居を見て、嗚咽して女房に笑われることも度々である。
 しかし、自分のことで、人前で泣くことは、意地でもしたくない。それは恥ずかしいことだと思っているのだ。やせ我慢も江戸っ子の特徴なのである。

 落語の小話に、「男が泣くときは、ガマ口(財布)を落としたとき(笑)」というのがある・・・。

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〈おんぼろ車だったので文京の坂を登れず、候補者自ら押した〉

言いたい放題 第5号 「えっ、これは天下りではないの!!」

 10月21日、亀井郵政改革担当大臣は、日本郵政グループの持ち株会社である日本郵政の次期社長に、斎藤次郎氏が内定と発表した。

 私は、ひっくり返るような驚きで、何度もニュースを確かめた。まぎれもなく、斎藤氏は、大蔵官僚OBで、古巣の財務省に今も大きな影響力を持っている人である。亀井大臣は、「次官を辞めて10年、15年も経てば中味は変化する」というが、東京金融取引所社長からの起用だけに、まさにこの人事こそ「わたり」ともいわれる、典型的な天下り人事ではないか。

 脱官僚依存を掲げて選挙を戦い、歴史的大勝利をした民主党は、早くも政権の基本的方針を180度変えるのか、どう考えても大矛盾ではないか。

 鳩山首相が亀井大臣から電話でこの人選を伝えられたのは、前日のことだという。
 大きな違和感を持って、「元官僚ではないかと議論した」とは御本人の弁である。
 悩んだ末に追認したというのだから、天下り、官僚人事と首相自身が思ったことを認めているのだ。「これは、相当のつわものだからおもしろいかなと思った」とも述べたが、語るに落ちるとはこのことた。

 断っておくが、私は官僚の天下りについて、従前から反対論者ではない。

 5回も大臣をやって、官僚の長所短所は克明に見てきたつもりだ。本当に有能な人材が沢山居る。
 このような優秀な人材が民間に転出することは、日本の社会や経済をより発展させる上で役立つとさえ思っている。
 問題は、官僚OBが、旧来の関わりを悪用して、官と民が癒着し、不正な行為をすることであって、この腐敗の構図を、そしてその根源を如何に断つかが、最大の課題なのである。
 だから、斎藤氏が有能で適任と信ずるならば日本郵政の社長に推しても一向に構わない。
 しかし、それならば、「天下り禁止」とか、「脱官僚」といった、きれいごとの看板を、まずおろし、国民に対する欺瞞をおやめなさい、と言いたいのだ。


 昨年、自民党政権下で、日銀総裁人事を決めようとした時、財務省OBであるという理由で、参議院で3回も不同意にしたのは、他ならぬ民主党であった。時の民主党の鳩山幹事長は、元大蔵事務次官である武藤敏郎日銀副総裁が、日銀総裁に就任することに反対し、これをつぶしたが、その理由は「財務省そのものの人物」ということであった。有能な武藤氏をよく知る私には、彼の無念さが、当時、痛い程伝わっていた。
 斎藤氏は十年に一度といわれた大物官僚で、まさに、良し悪しは別にして「財務省そのものの人物」である。あれが駄目、これはいいでは、一貫性も整合性もあったものではない。


 「小沢一郎人脈?」

 今度の人選で、もう一つ不信感を抱くのは、この斎藤氏と小沢一郎氏との深い関わりである。

 私の手元に、「時代に挑む」という平成8年に講談社から発売した私の著書がある。

 この一部に細川政権誕生後、予算委員会筆頭理事として、果敢に闘った私の議事録を載せている。
 細川政権の最大のネックは、8党会派という連合体の為、意見が合わず、予算の編成が出来なかった点にあった。
 従来、予算案は、12月中にまとめあげ、1月から3月まで議論し、これを成立させ、4月から執行するのが通例である。
 ところが、1月になっても提案されず、編成もされていなかった。提案したのは3月のことであった。
 予算編成が出来ないのは、経済対策の為に必要とされていた消費税問題について、厳しい対立があったからである。

 ところが、平成6年、2月3日未明、細川首相は異例の記者会見を行って、「3年後に消費税を廃止して、それに代わる一般財源として、税率7%の国民福祉税を創設する」と発表した。
 名前は変わったが、主として福祉に使いますというだけで、中味は、消費税そのものである。


細川政権を追求.jpg 私は2月18日の予算委員会で、細川政権にこの問題について徹底追求した。(議事録は拙書に掲載)
 一体、この福祉税なるものが、どういう経過で生まれたのか、各大臣に質したが、誰も知らない、中味について聞かされたのは直前であったことが判明した。

 福祉と名の付く案だから、担当の厚生大臣は承知していなければならない筈だが、大内啓伍大臣も知ったのは発表直前であったという。

細川政権を追求2.jpg その内、武村正義官房長官が「ペーパーとしてきちんとした要綱を見たのは、当日の夕方で、細川総理が知ったのも、あまり時間は違わないと思う」と、ポロっと本音を漏らしてしまった。
 なんのことはない、この案をつくったのは細川首相自身ではなく、別に黒幕が居たということなのだ。
 長時間に及び私の質問の中から、この秘策をねったのは、新生党の小沢一郎代表幹事と大蔵省の幹部であることが明らかになった。
 そして、その幹部こそ、93年細川内閣時の大蔵次官、斎藤氏その人だったのである。


 今回、亀井大臣は「長い間の友人」と、彼を高く評価しているが、当時、政府追及の急先鋒は、私と野中広務氏、そして亀井氏で、三国同盟といわれていた。共に斎藤氏の行動を大批判したものだが、その時のことを想い出し、亀井さんらしい変節ぶりと密かに苦笑しているのである。


 2007年、民主党代表だった小沢氏は、時の福田康夫首相と「大連立」に動いて大変な話題となった。この構想はすぐに頓挫したが、結局、福田首相辞任へと、つながっていった。
 この時、仲介役を果たし、仕掛け人といわれたのが斎藤氏であった。

 亀井氏は、小沢幹事長に伝えたのは、斎藤氏が就任に応じた後だったと言うが、これはあり得ないことで、斎藤氏はまさに小沢人脈の代表人物そのものなのである。

 誰が見ても、「小沢氏はここまでやるか」というのが率直な感想である。

 鳩山政権発足、わずか1ヶ月、脱官僚という剥がれやすい公約(膏薬)がもうほころびはじめた。なによりもそして、小沢氏との権力の二重構造が、白日の下に晒されたということではないか。


 羊頭狗肉とは、このようなことを言うのではないか・・・と私は思っている。

言いたい放題 第6号 「テレ朝で、久しぶり?の私」

 10月16日、朝8時からのテレビ朝日「スーパーモーニング」で、比較的長く、意外に丁寧に、私のことが取り上げられた。
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 色んな人から、「元気な姿が見られて嬉しい」と、ありがたい反応もあった。
 私自身は、それなりに忙しく、元気一杯で暮らしているのだが、みなさんにとっては、「あの人は今!?」状態なのかもしれない。少し早すぎるとは思うのだが・・・。


091024bインタビュー.jpg テレビの中味は、前日(10月25日)決まった神奈川、静岡の参議院補選を受けて、「これからの自民党の行方は?」といったテーマである。
 なにしろ、鳩山政権発足後、初の国政選挙として注目されていたから、まさにタイムリーな番組だった。しかし、私への取材はその投票日前日の24日から次の朝までで、まだ本当の結果が出ていた訳ではない。
 近頃は、選挙前の調査で、事前にほとんど当落が決してしまう。前回の衆議院議員選挙も、出口調査とやらで、投票締め切りと同時に当確がテレビで発表された。民主党2勝を前提としての今回の取材は、まさにこのパターンであった。


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 今回の取材は、丁度、私が塾長をしているTOKYO自民党政経塾の恒例の合宿を行っている箱根湯本ホテルであった。カメラマンを含む3人の記者さんは、泊まり込みの熱心さであった。


 かつて、平成5年、今から16年も前だが、自民党が下野し、細川護煕総理を中心とする新政権が華々しく誕生した。
 70%以上の支持を集め、大きな時代の変化を思わせ、これは長く続くと大方が考えていた。だが、その時、政権打倒を訴え敢然と立ち上がった政治家が居た、それが深谷隆司だ!ジャーン(当方で勝手に入れた擬音)といった感じのテレビであった。
 若き日の私(といっても56歳、なかなかイケメン、今と比べて・・・)が、予算委員会で、猛然と質問をしている。
091025d合宿講義.jpg その隣で笑っている野中広務氏の姿もあった。これは細川総理証人喚問の折のものである。
 当時、証人喚問は静止画像の時代であった。そこで、いかにも質問しているような風景を事前に撮るのだが、なんとその時の動く画像も流されている、私も初めて見る映像だ。
 テレビ朝日は、実に膨大な映像を資料として保存しているのだと、この点にも驚かされた。

091024e懇親会.jpg 今回の合宿会場の講義中の姿や、朝6時半からのラジオ体操まで紹介され、その間、何度か、私のインタビューが続いた。
 私は細川政権と鳩山政権は非常に似ていて、共通点があると感想を語った。意見の異なる人達が集っているのが今の鳩山政権だが、細川政権も8党会派から成り立っていて、だから何事についても意見の集約が困難であった。その為に、特に最重要の新年度予算案がまとまらない。消費税がネックであった。
 予算案の国会提出は、12月に出せず、1月、2月も過ぎて3月まで持ち越され、実質の審議に入ったのはなんと5月のことであった。
 しかも、この間、突然、国民福祉税7%を未明の記者会見で発表し、批判を受けると、直ちに撤回するというお粗末ぶりである。これでは日本の前途は危ういと、われわれは必死で追求したものだった。
 その上、次々と総理自身のスキャンダルが報道される。
 ついに進退窮まった細川総理は、わずか政権誕生8ヶ月で退陣となってしまった。
 退任直前に、予算委員会は細川総理の証人喚問を決めていた。
 辞める人へのこれ以上の追求はどうかと苦慮したものだが、党の決定と、皆に強く押されて、その憎まれ役も私が負わされたのであった。
 もっとも、この徹底した追求が、後に続く羽田政権を2ヶ月で追いやり、村山政権から、自民党政権の復活へとつながっていくのだ。


 鳩山政権が生まれてまだ1ヶ月、しかし、すでに政策の変更やら、方向転換等、公約違反が目立っている。
 その原因は、ほとんど党内の意見の相違か、閣僚達の軽率な発言の結果である。その上、鳩山氏に関わる明らかな政治資金規正法違反疑惑は、連日、新聞マスコミの1面をかざっている。
 だから、予算委員会で、国民の皆様に伝わるように、これから始まる臨時国会で堂々と追求することが、「まず第1歩のチャンスだ」と私は思っているのだ。

091025fラジオ体操.jpg ただ、こうした追求には、よほどの決断と度胸がいることで、今、生き残っている議員達に、そんなパワーがあるのかが問題だ。
 記者の質問に、「現状を見ると、どうも心配、まだ軟弱かな・・・」と答えた。
 その時代時代に、マスコミの反応や、世論の動きに耳を傾けることは大切だが、政治家が「これが国の為に必要だ」と信じた場合は、憎まれようと、嫌われようとそんなことを恐れずに、堂々と論陣を張っていくことは大事なことだ。
 なんとか、みんなで頑張って欲しいものだと外野から密かに祈っているが、そんな私の心が、少しは伝えられるような番組であった。

 だから、テレビ朝日、私は好きなのだ・・・・・・?

言いたい放題 第7号 「野党、厳しい現実」

 過日、今度自民党総務会長に就任した田野瀬良太郎代議士が、拙宅を訪れた。
 先輩総務会長の私に教えを乞いたいということであった。

 私は平成10年、小渕政権誕生と共に、初の総務会長になった。時の幹事長が森喜朗氏、政調会長が池田行彦氏である。
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 余談だが池田氏は平成16年1月28日、大腸がんで早逝したが、丁度、その日が、なんと私が同じ病の大腸がんの手術に成功した日であった。
 彼の場合、当選を重ね、公務に追われ続け、病気発見が遅れたのである。
 私は選挙に破れた直後、丁度、時間に余裕が出来たので、かねてからあったポリープを除去しようと杏林大学病院で検査を受けた。その時、がんを発見してくれたのである。念のために医師に聞くと、「もし発見が遅れていたら、まず6ヶ月の生命でしょうな」ということであった。
 運、不運は、まさに紙一重で、天は私を救う為に選挙に落選させたのかとさえ思った。そんなことはないか・・。


 自民党総務会は、党大会に匹敵する権威あるもので、与党時代、全ての法案提出は、政調審査会を経てここで最終決定を行うことになっていた。
 その上、他のことも含めて、全ての決定は満場一致でなければならないことを原則としている。
 勿論、大きく対立して、まとまらない時もある。
 例えば、日中国交正常化の時がそうだった。二つの中国は認められないということで、日本は中華民国(台湾)との国交を絶たねばならない事態になった。ところが、「第二次大戦に敗れた時、あれだけ日本に理解を示し、支えてくれた蒋介石総統の台湾、その恩情を忘れたのか」と、青嵐会のメンバーを中心に大反対となった。総務会は混乱が続き、誰もこの解決は不可能と思ったものだが、日中国交正常化は国是だからと、最後は満場一致の決定となった。
 なんのことはない、反対メンバーが全員廊下に退出し、結果的に満場一致の形をとったのである。いわば大人の知恵であった。

 売上税で大荒れの時、私は総務の一員で、当時の西岡武夫総務会長(現民主党参議院運営委員長)に対し、「断固反対、総務会で決定させない」と大熱弁をふるった。
 私に同調して反対論をぶったのが若き日の小泉純一郎氏である。
 二人は一切の妥協を許さず、交互に演説を続け、延々三時間に及び、ついに西岡会長がたまらず逃げ出すという一幕となった。
 時の竹下登幹事長は私を呼んで、早稲田雄弁会の後輩の私に、「お前はなんとも頑固な奴だわな」と舌を巻いて、この案を撤回したのである。
 やがてようやく国民の理解も得られたと、消費税と名も変えて導入が決まったのは、2年後の昭和63年のことであった。大平正芳総理の時代に消費税問題が浮上して、実に10年後のことである。
 時間をかけて丁寧に国民の理解を求めることがいかに大切か、しみじみと感じたのは、この時のことであった。


 田野瀬新総務会長曰く、「どうも、その総務会の権威が薄くなりそうなのです」
 自民党は野党になって、もはや、法律案を提出する立場にはない。法案を決定する権限の無い時代、総務会そのものが必要ではないという声まで、マスコミで散見するようになっているのだ。
 かつて総務会のメンバーは、圧倒的に大臣経験者が占め、勿論、会長は大臣経験者であった。田野瀬氏はまだ大臣を経験していない。
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 なにもかも、初めてのケースばかりである。
 私は声を強めて言った。
「これからは野党に徹して、闘う自民党にならなければいけない。国家国民の為に、与党の誤りを糺すことは野党の責任、逆にいえば特権だ。与党の提出する法律案について事前に論議を重ね、必要な時は、役人を呼びつける。民主党の役人排除の論理でいけば、大臣や副大臣を呼んで、総務会で直接質すことだってひとつの案だ。
今が、逆に総務会の存在を確固たるものにする最高のチャンスではないか」と力説した。

 田野瀬良太郎総務会長は欣然として帰られたが、なんと車に乗ったのは彼一人ではないか。
 野党になると、党三役総務会長といえどもSPもつかない、住居に交番も建たないのである。ちなみに、今回、党三役でSPが付いているのは幹事長だけ、政調会長にも警備はつかない。
 野党の立場になると、なんだか軽く扱われているようで侘しい。本当に厳しいのはこれからだと改めて思った。
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 後日、田野瀬総務会長は、TOKYO自民党政経塾の箱根湯本合宿に参加してくれた。若い頃、世界一周したことなど面白い話を聞かせ、市議会議員を経て県会議員、やがて国会議員になった経過を塾生に率直に語った。落選も経験し、這い上がってきた彼には根性がある。

 頑張れ、総務会長!負けるな自民党、と心から祈らずにはいられなかった。

言いたい放題 第8号 「自信と勇気をもて」

 10月27日午後7時から、TOKYO自民党政経塾の専門コースがあり、第1講義は西村康稔代議士であった。
 彼はまだ当選3回生だが、通産省出身の故か、私に対してはいつも好意的で、私も親近感を覚えていた。
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 自民党が歴史的惨敗を喫して、最悪の状況の中で総裁選挙が行われた時、彼も手をあげて、谷垣禎一氏と河野太郎氏、三人の争いとなった。
091027政経塾02西村先生.JPG 最悪の時、火中の栗を拾うように、自ら名乗りあげることには勇気がいる。河野氏の場合、元々エキセントリックな人だから、「そうかな」と思ったが、日頃、極めておとなしく、良識的な人だから、西村氏の出馬は予測していなかった。
 長老連中が、作戦上、彼を立てたといった噂が出たが、私は西村氏の決断と将来性を買ってあげたいと、注目していた。

 結果は、あらかじめ予想された通り、谷垣氏の当選となったが、これではあまりに平凡、ごもっともすぎて、面白くもなんともないというのが私の感想であった。
 政経塾の政治志望コースに、彼を呼んだには、そんな思いからだが、沢山の資料も用意して来て、真摯な講義は好感が持てた。
 あとは、迫力とか凄味が必要だが、これは政治家として更に年季を積まなければならないことだ。僭越ながら、私も大いにその支えになってあげたいと思ったものである。

 この夜の塾に、なんと岩井茂樹君が来ていて、私に会いたいと待っていた。
 彼こそ、先日(10月25日)終わったばかりの静岡県参議院議員補選に、自民党公認で闘った人である。
 わが政経塾の三期生で、昨年一年、私の元で学び、皆勤賞、最優秀賞を受けた塾生だ。
091027政経塾03岩井茂樹さん.JPG

 残念ながら、民主党の風とやらの前に破れたが、40万票をこえる得票で、これは立派な成果だと、私は心からほめてあげたいと思っていた。
 なにしろ公募で選ばれ、公認となったのは9月のことで、まさに選挙直前で、準備は勿論、名前を知ってもらうだけでも大変なことである。

 その上、自民党県連では、ゴタゴタの内紛も起こっていた。
 すなわち、静岡県川勝平太知事が提出した「組織改編条例案」に自民党は反対し、党議拘束までかけたのだが、造反者が出て混乱、ついに選挙直前、三役が辞任、指導者不在のままの選挙入りとなってしまったのである。
 その上、この時期は県会議員の視察のシーズンである。いい季節を選んでの視察は、体のいい「物見遊山」という批判もある。せめて選挙中は遠慮して欲しいと依頼されていたのだが、なんと県会議員の半数が視察で他県へ行って不在であったという。
 これでは一体、選挙に本腰を入れていたのかと、いささか腹立たしく思うが、「やる気が全く無かった」と、これはマスコミ報道であった。
 先の衆議院選挙で静岡県の自民党国会議員は、9名からわずか2名と激減した。意気が喪失したことは分かるが、ならば、この一戦で頑張ろうと、全力投球で臨むのが当然ではないか。
 もう自民党では駄目と考え、手を抜いたとしたら、地方議員とはいえ、政治家としては失格だ。
 民主党政権が誕生し、まだ一ヶ月、公約が次々変節していても、鳩山首相の献金疑惑が連日報道されても、世間全体のムードは相変わらず民主党贔屓(びいき)である。
 静岡県の各種団体もすっかり腰が退けて、医師会も農協も漁協も、頼りの公明党まで、自主投票と決まっていた。

 自民党新人候補、岩井君にとって、何もかも最悪の状況の中の孤独な闘いであった。
 しかし、大差とはいえ、得た支援は40万票以上である。
 41歳という若さと情熱、そして限りない夢に向かって進む行動力の成果なのだ。
 更に、彼がいみじくも語ったように、「政経塾で学んだことが、本当に役立った」ことも大きな基になっていると思いたい。
 自民党は、ここに参加する塾生のように、誇りと自信をもって団結すれば、まだまだ決して捨てたものではない。
 時代の大きな変化の中で、いたずらに周章狼狽し、自己保身のことばかり考えてはならない。
 この国の為に何を為すべきか、己が政治家になろうと決意した、あの時の心を取り戻し、果敢に努力し、堂々と獅子吼(ししく)することが肝要なのだ。
091027政経塾04.JPG
 「ああ、俺がもっと若かったらなァ・・・・・・」。
 この夜の塾での私の講義は、一段と熱が入ったものになったことはいうまでもない。

言いたい放題 第9号 「友情に感激」

 友人とはありがたいものだ。
 私がさきの選挙に破れて以来、しばらくお互いに無音に過ぎた友人達が、次々と声を掛けてくれるようになった。
 中には「週一回は飯を食おう」と言ってくれ、目下実践している人もいる。
 これらの友人は、「お前が大臣など、政治家として全盛の頃は、身近な者だから、出来るだけ表に出ないように、迷惑をかけないように心がけて来た」と共通したように言ってくれる。
 そんなこともつゆ知らず、私の方は「あいつ、ちっとも来てくれない、冷たい奴だ」と勝手に思ったりしていた。

 政治の世界に没頭して、ただ追われるように暮らして来て、心ならずも友情をかみしめる日常的な機会は確かに少なかった。
 今、しみじみと、ありがたいことだと思っている。

 仙台に住む古くからの友人、竹内廣君というのが居る。彼は実にこまめに手紙やハガキを送ってくれる。それもその筈で、元は東北郵政局で秘書課長をつとめていた郵政マンだ。

 私は平成2年、海部内閣の時、郵政大臣に就いた。様々な仕事を果たしたが、郵政全体の士気を高め、又、大臣の意思を正確に伝えたいと、全国行脚したことがあった。
 当時、全国に郵政局が12ヶ所あり、私は沖縄にいたるまで全ての局を踏破した。百二十年続いた郵政の歴史の中で、大臣全国行脚は初のことであった。
 その旅の中で、一番印象に残った男が竹内君で、顔に似合わず大変な美声で、「NHKのど自慢」で鐘3つ鳴らしたこともある。駄洒落を得意とする東北の名物男である。

 今はすでに定年退職して72歳、先の選挙では、上京して私の選挙事務所近くの旅館に滞在し、必死に裏方をつとめてくれた。私は毎日選挙運動で駆け回り、事務所に寄ることもほとんど無い。
 彼と食事をすることも出来ず、会話さえ交わすこともない状況であった。
 戦いに破れ、「竹内君は?」と言うと、すでに前日帰郷してしまったという。
 迷惑をかけまいと、彼なりに思ったのか、あるいは破れた私の姿を見たくなかったのかもしれない。
 その後も相変わらず面白い手紙が何度も届いたが、私に関するどんな些細なニュースや記事も見逃さず、まるで朝から晩までテレビ・新聞をチェックしているかのように、その度に連絡してくるのだ。

 先日も、彼からの手紙がきた。「たかじんのそこまで言って委員会」という番組で、評論家の三宅久之さんが、深谷のことを語ってくれた。「あまりにうれしくて興奮していたから、正しく伝わらなかったと思う。自分のペンフレンドが、自分宛の手紙の中で冷静に「再現」してくれたので、同封します。」とあった。
 「日曜日の宮城テレビ、「たかじんのそこまで言って委員会」で、評論家の三宅さんが、自民党もだらしない。自民党を立て直すのには、野中広務さんや深谷骼iさんのような人材が必要不可欠だと話していました。ご覧になったかどうか分かりませんが、三宅氏によれば、両氏は地方議員当時、蜷川、美濃部知事に対抗する野党として、鍛えられた論客として実力を高めたとのことでした。何より攻め方を熟知しているという。思いがけず深谷さんの名が出て、竹内さんより控え目に嬉しく感じています。」
 勿論、この番組を私は見ていない。評論家の三宅さんは、早大の先輩である。古くから交流もあり、敬愛する知人の一人だが、自分の知らぬところで、こんな発言をしてくれているのかと嬉しく思った。

 竹内さんに手紙を書いてくれた方は、元宮城県庁のOBで、仙台に住む後藤昌弘氏。まだお会いしたことはないが、私の新しい友人として、早速名簿に書き加えたことはいうまでもない。

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