第720回「九州5日間の旅」

 深谷隆司の言いたい放題第720回

 「九州5日間の旅」


520日、県会議員小林克敏氏の懇請を受け、ご子息の結婚式の仲人を勤めるため長崎に行った。若い頃は130組以上の仲人をしたが、近年は年齢を理由にほとんどお断りしていた。

新郎央政君は総合介護サービスセンター泉の里施設長、新婦一瀬仁美さんは長崎医療センターのお医者さん、5年前、研修中に知り合ったお似合いの新夫婦である。父親が県会議員だけに披露宴も盛大で、なんと2回も行われ合計700人の大盛況。家内の着付けは4時、ホテルに戻ったのは夜中の12時、大強行軍の1日であった。

私が自治大臣の時、雲仙普賢岳災害の復興支援で1000億円の基金を作ったことで、こちらではちょっと有名?、当時の高田知事が90歳を越える高齢にもかかわらず、私にお礼だけでも言いたいと奥様付き添いで出席、感動的な挨拶に、政治家冥利に尽きると思った。

翌朝、鹿児島県に移動、今度は城山観光ホテルで徳真会松村ご夫妻と待ち合わせた。この地に新しい病院を作るための視察に同行する目的だが、これは一つの口実で九州の旅の延長であった。

ここはなんといっても西郷隆盛の足跡めぐりだ。明治維新の立役者であったが、最後は不平士族のリーダーとして政府軍と戦い、敗れて自決する。波乱万丈の生涯だが、その人柄、行動力、決断力、更に風貌も加わって英雄である。

城山観光ホテルの近くにある、西南戦争最後、数日間こもった穴倉、自決した場所など感慨無量の思いで見つめた。

22日、大正3年の大噴火で埋没した黒神神社鳥居を訪れる。実は今から40年前、長男隆介を連れてここに来ている。その時、倅が小用のため駆け込んだ店の御主人から、「君は立派な顔をしている。お父さんを超える人物になる」と言われた。既に国会議員であった私が顔を出すと相手もびっくり、以来今日まで交流が続いているのだ。この池田さん一家の大歓迎を受けたが、なんとその社長室には、私が描いた龍の絵が飾られていて、「毎日、挨拶しているのです」・・・。人との出会いほどすばらしいものはない。

この日、かねてから願っていた知覧特攻平和会館を訪ねた。太平洋戦争末期、人類史上例のない、飛行機もろとも肉弾となって敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品などが保存展示されているのだ。

もう入り口から私は涙が止まらなかった。この地から400数十機が沖縄周辺のアメリカ艦隊に爆弾を抱えて突撃したのだ。なんと無謀で愚かな作戦であったのかと怒りを禁じえない。それにしても、作戦に志願した若者達が、命を捨てても守りたかったのは何なのだろうか・・・。

「国のため、父母に受けたる、精神もて、我は散るなり、桜の如く」松尾登代喜。「俺が死んだら、何人泣くべ」前田啓。「前略 お母さん、お母さん、今俺は征く、母を呼べば母は山を越えても、雲の彼方からでも馳せ来る、母はいい、母ほど有難いものはない、母!母!」中村實。

彼等が残した最後の言葉をこうして書きながら、私の嗚咽は止まらない。

この人たちを無駄死にさせてはならない。彼等の意思をしっかり受けとめ、素晴らしい日本を作ることがわれわれの務めだ。それつけても思うことは政治家の劣化だ。都議選も含めて立派な人を送り出さねばと改めて誓った。

種子島では鉄砲を開発した日本人のすばらしさを学び、宇宙開発センターでは所長の依頼で「夢を求めて生きることの楽しさよ」と揮毫した。屋久島の自然はすばらしい。3000年もの時を経た紀元杉に、悠久の時の流れを感じ、しばらく寄り添って「氣」を貰ってきた。

25日、東京に戻ったが、もう想い出を噛みしめる余裕はない。

夜は北区の高木啓都議会議員の応援演説、更に文京区中屋文孝都議の選対会議、おっと忘れてはいけない、この日は53年目の結婚記念日、一族が遅くまで家で待っていてくれた。私は本当に幸せものである。