第601回「再び長崎へ」

 深谷骼iの言いたい放題第601回
 「再び長崎へ」

 2人の孫を連れて長崎へ行ったのは、ついこの間、2月15日のことであったが、4月1日、再び長崎の地を訪れた。
 私にとって長崎は昭和21年、満州から引き揚げて初めて上陸した日本の地、この時の感激が愛国心の目覚め、政治家を志した原点となった。
 その上、平成7年、自治大臣の時、雲仙普賢岳の災害復興に尽力し、1000億円の基金を作って甚く喜ばれたことなど、政治家人生の中でも大きな思い出の一つとして残っている。
 孫たちにそんな私の原点を知って欲しいと連れて行ったのだが、その時、誠実に対応してくれたのが小林かつとし氏であった。あまりの親切さに感謝し、彼に乞われて急遽大村で講演を行った。
 彼は私が大臣時代長崎県会副議長で、熱心に陳情に来て、それが私の心を動かし、災害対策基金の実現につながったのだ。
 にわかの講演会であったが会場は600人満員盛況で、感激した人たちから、もう一度来てほしいとの懇請が続き、再びの長崎訪問となったのだ。今回は中屋都議、稲見秘書が同行してくれた。
 実は、今日(4月3日)から長崎県会議員の選挙が始まった。この大村から小林氏も再出馬したのだ。様々な事情があって彼は無所属出馬を余儀なくされている。
 今回の講演は、だから完全な応援演説、会場の大村市民会館は1000人以上の超満員、ロビーにも300人余の人が詰めかけていた。
 小林氏はさすが若い頃自民党本部で活躍しただけあって、素晴らしい雄弁家で会場を沸かせている。国会に出してもおかしくない内容と話術に、私まで聞きほれてしまった。
 私も釣られて久しぶりの大熱弁となった。会場の人達は皆素朴で真剣に話を聞いてくれ、正確に拍手と笑いを寄せてくれる。かつての私の演説会はいつもこうだったと、その頃の光景を走馬灯のように想いうかべて胸が熱くなった。
 是非彼を当選させたい、会場の人々も語る私も、同じ思いで燃えた。絶対にこれなら大丈夫と思いつつも選挙に油断は禁物だ。最後まで頑張って欲しいと檄を飛ばした。
12日が投票日、いい結果が出て欲しいと真剣に祈っている。

 帰京直前、念願の長崎原爆死没者追悼平和祈念館などを訪ね、祈りを捧げた。
昭和20年8月9日、午前11時2分、長崎の街は一発の原子爆弾で壊滅的打撃を受けた。およそ4トントラック5200台分のダイナマイトを上空で爆発させたと同じ威力、その上大量の放射能を浴びて死者7万3千人、負傷者7万4千人の犠牲者を出した。広島に続いての許されざる暴挙だ。
 爆心地を歩き、北村西望作の平和記念像の前に立って泣きたい気持ちになった。
 今、原爆水爆の威力は長崎、広島で使われたものの数百倍もあるという。しかも、核弾頭は世界に1万6千発以上だ。ロシア8500、アメリカ7300、フランス300、中国250、イギリス225・・・。
 1968年に核不拡散条約が出来たが、核を持っている国が減らすわけでもなく、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮など加入国ではない国が勝手気ままなのである。
 最近、安倍政権のあり方を巡って中国や韓国が軍国主義化などと批判しているが、日本ほど平和を求め実践している国はないと改めて思ったものだ。
 平和資料館を覗いてみてつくづく思ったことは、生々しい当時の様子が展示されているけれど、そこにはアメリカに対して恨みがましいことが一つも描かれていなかったという点である。
 中国の例えば南京虐殺記念館など、日本の残虐性(事実でないことも含め)を針小棒大に訴え、恨みつらみ満載の「反日の一大拠点」にしている。日本人の寛大さ、大局をわきまえた大人の風格が感じられるようであった。

 私の長年の応援者上野政男氏が逝去され、4月1日、2日通夜告別式が執り行われた。実は葬儀委員長を依頼されたのだが、長崎の講演のキャンセルが出来ず、家内が参列した。突然のことでやむを得ざることだが、生前の御支援を思うと誠に申し訳ないと思っている。
 謹んで哀悼の誠を捧げたい。  合掌