第473回「最近の感慨」

 深谷骼iの言いたい放題第473回
 「最近の感慨」

 日本傷痍軍人会が解散することになって、去る10月3日、明治記念館で60周年記念式典と解散式を行った。
 傷痍軍人と言っても、今の若い人にわかるだろうか。戦争で怪我をしたり病気になった人々を言うのだが、実感として分かる人はほとんどいないのではないか。日本の場合、敗戦からすでに68年もたっていて、日本が戦争でどんな悲劇的結果があったのか、体験も無い人が圧倒的なのだから仕方がないことだ。
 私が終戦を遠く満州ハルピンで迎えたのは1945年、10歳の時であった。翌年、筆舌に尽くしがたい引き揚げの苦労の末、ようやく帰国したのだが、東京はまだ焼け野原で、浅草の場所によっては、そのまま富士山を拝めたほどであった。
 当時、焼け出された人や引揚者の為に学校が住居として提供されていて、私達家族5人は田中小学校の3階に住んだ。2年経って隅田川沿いの今戸中学校へ通ったが、学生服など無く、軍服を縫い直した服、わらと布で編んだ草鞋ばきであった。この頃からようやく外食券食堂で白米の御飯にありつけるようになったのである。
 まだアメリカ人の進駐軍が居て、チューインガムやキャンデーなどを子供たちに配ったりしたが、私も貰って父にひどく怒られたことを覚えている。
 商店街や繁華街、街の至る所に、アコーディオンなどをかき鳴らして、お金を求める白衣の人が居た。手や足を失っている人も多く、「あれが傷痍軍人だ」と教えられた。そう教える大人たちの言葉に、同情の念と蔑みに似た思いが同時に込められているようで、子供心にも大きな違和感を覚えたものである。
 戦争中は、国も国民も異常に高揚していて、「名誉の負傷」と彼らに感謝し、高く評価したものである。帰国した傷痍軍人を皆で温かく迎え、地域社会や家族は自主的に世話や援助をしたものである。
 ところが、やがて戦争が終わると、次第に厄介者扱いにされ、どれだけ彼らは苦しんだことか。
 傷痍軍人の存在は、一つの社会問題となったが、ものの本によると、こうした社会問題はギリシャの時代からあったと言う。
 日本の場合、厚生省を中心に補償がなされ、恩給等の対象者にもなったが、それでも現実は苦しく、街に出て金銭を乞うた。中にはそれを職業とする偽傷痍軍人まで出てきた。
 そんな中、国に補償を求めたり、又、自らの体験を元に、不戦の運動を展開する為に、大戦で負傷したり病気した軍人が集まり「傷痍軍人会」が発足したのである。戦後7年目、ようやくGHQの間接統治の終焉を迎えるころであった。
 当時の加入者は実に35万人であった。
 幾星霜、時は流れて今は5000人を数えるのみとなった。しかも平均年齢は92歳、もはや傷痍軍人会を維持することも不可能となったのである。
 60周年記念式典には、天皇皇后両陛下が参列された。出席者は感涙にむせんだ。
 陛下のお言葉は次の通りである。
「戦傷兵とその家族が歩んできた歴史が、決して忘れられることなく、皆さんの平和を願う思いと共に、将来に語り継がれていくように、切に希望してやみません」。
 参加者の一人は、「日本が戦争をせず、新たな傷痍軍人を出さずに済んだことが嬉しい」と語ったという。

 10月5日、洗足学園音楽大学シルバーマウンテンでの「Jazz Meets Classic」に出掛けた。武見由美子さんの主催である。彼女は参議院議員の武見敬三夫人、芸大出身の名ピアニストだ。
 武見氏の選挙の最高顧問などをつとめたことから、近年友好を重ね、その御縁で伺ったのだ。会場には森英介代議士夫妻や福田元総理夫人、高村副総裁夫人、大島理森代議士夫人、林幹雄代議士夫人、山本有二代議士夫人ら、お馴染みの顔が揃っていて、女房も久しぶりの出会いに喜んでいた。
 武見夫人のピアノを中心に、チェロとジャズトリオの演奏だが、1時間があっという間に過ぎたような感覚で、素晴らしかった。特に手の動きがまるで泳ぐようで美しかった。
 武見夫妻には「おもてなし教室」を開いてる娘恵理の家に招いたり、私の誕生日でのどんちゃん騒ぎにも参加してもらった。こんなピアニストとは知らずに、私は得意のピアノ弾き語りや 、京都から駆けつけた友人のギターで「裕次郎もの」を歌ったが、今思うと赤面の至りだ。
 そのことを言うと、見送ってくれた夫人曰く「先生の歌を聴いて、目から鱗が取れたように思いました。音楽は心から楽しむものなのだと初めてわかりました。今日の演奏は楽しくさせていただきました」。
 
 私も、ついに?、9月29日をもって78歳になった。馬齢を重ねたものである。
最近は一つ一つの出来事や、一人一人の友情や風情が心に沁みるように思える。色々なことに深い感慨を覚えるのは歳のせいかもしれない・・・。