深谷隆司の言いたい放題 第292号
「南京大虐殺は本当か その2~泥沼の日中戦争~」

 1937年(昭和12年)7月7日 中国華北地域の北京郊外にある盧溝橋で、日中両国の間に戦闘が起こった。
 発端はこの地域で演習を行っていた日本軍に、中国軍から銃弾が発射されたことからであった。

 そもそもこの軍隊は、日露戦争後手に入れた、南満州鉄道と遼東半島を守るために編成された、いわゆる「関東軍」である。
 満州事変や上海事件をきっかけに戦線を広げた関東軍は、ついに「満州国」を樹立させた。
 漢人、満州人、蒙古人、日本人、朝鮮人の五族が力を合わせて協力し、正義の道に基づいた平和で豊かな国をつくろうと、「五族協和、王道楽土」が旗印であった。勿論、真剣に理想に燃えての事で、当時の日本人、中国人に共鳴者が多かった。
 日本政府や軍中央部は、戦争不拡大の方針であったが、力をつけた関東軍は次第にこれに従わなくなっていった。
 国内で彼らの行動を支持し煽り立てたのは日本のマスコミと、国民の交戦気分の盛り上りであった。
 その背景に、国内にはびこる政治不信や深刻な不景気、貧しい国民生活があったことは看過できない事実であった。

 一方、こうした日本軍の行動に対して中国は、日本の侵略だと国際連盟に訴え出た。
 その結果、日本の中国進出に対抗していたアメリカを中心に、満州国を認めないということになった。ならば、日本は国際連盟を脱退すると、松岡洋介代表はついに席を立った。1933年(昭和8年)2月24日のことであった。

 当時、中国国民党の蒋介石は、中国共産党の毛沢東と内戦をおこない、これを追い詰めていた。毛沢東は蒋介石の攻撃の矛先を日本に向けさせようと必死であった。
 この時起こったのが西安事件で、なんと張学良に蒋介石が監禁されたのである。蒋介石は対日戦争を優先させると約束し監禁を解かれた。両者が手を結んだ結果、中国側の自信と戦意が上がったことは言うまでもない。
 盧溝橋事件の後、和平交渉も持たれたが、通州で200人の日本人居留民が殺されたり、上海で中国保安隊に、日本の海軍中尉とその部下が殺害されたりして、一気に戦火は拡大されていく。
 3ヵ月の激闘の末、日本軍は上海を陥落し、逃げる中国軍を追って首都南京へと追撃を続けたのであった。
 雨の日が続き、文字通り「泥沼の戦線」となったのであった。

 この間、南京では様々な動きがあった。11月11日、蒋介石は南京死守を決定。22日、南京在住の欧米人を中心に、軍事力の存在しない中立地帯、いわゆる「安全地帯」を設立、公表する。12月7日、蒋介石は飛行機で秘かに脱出。12日には唐南京防衛軍司令官まで逃亡してしまう。
 南京の戦闘は困難を極めた。堅固な城壁、それを囲む河、トーチカ、鉄条網、重機関銃、重火器、これらをかいくぐって、ついに日本軍が南京城門を落としたのは12月13日未明であった。
 この日から約6週間、つまり1月末まで、日本軍による虐殺、暴行、強姦、略奪、放火が行われたと言われているのである。
 果たして、本当にそのような事実があったのだろうか。