深谷隆司の言いたい放題 第246号
「サヨナラ談誌師匠」

 23日の午後、立川談志師匠(以下師匠を省く)死去の報が流れた。
 実際は21日12時24分に亡くなったとのことだが、親しい知人や弟子にすら知らせず、家族で密葬をしたという。如何にも談志らしい旅立ちだと思った。彼は私より一年下の75歳である。
無性に悲しい。

 実は、最近、元の私の自宅(今は事務所)、日本堤の倉庫の整理をやっていて、偶然、立川談志からの手紙が出てきて昨晩も家族でその話題で賑やかだったのだ。
 手紙の差出しに、1993年5月18日 文京区根津1ノ・・・ 立川談志とある。達者な字で、達筆と言うより洒脱、粋な文字である。

 「前略 過日は御馳走様でした 小生 メイテイ チト はしやぎ過ぎ いささか反省であります、でも楽しき三社様の一夕でした
良き家族に囲まれて貴兄は幸福一杯なのがよくわかりました、皆々様に無禮の段 良ろしく お伝え下さい
何かありましたら何時でも申し付けて下さい 身体で済むことでしたら かけ付けます、酒は水よりも害はない うたぐる前に洪水をみよ とありますが…さあーつ、」(原文のまま)

 彼は1969年、東京8区から衆議院選挙に立候補して落選している。その年に私は東京都議会議員に初当選した。次の選挙で私は国会に出るのだがその選挙区が東京8区、1回ずれていたらライバルだったかもしれないのだ。
 1971年、今度は参議院選挙に無所属で出馬、50人中50番目、最下位で当選を果たした。
 4年後、三木内閣の時に沖縄開発庁政務次官に就く。
 早速、沖縄を訪問したのはいいのだが、二日酔いのまま記者会見に臨み、記者から「公務と酒とどっちが大切か」と追及され、「酒に決まってるだろう」と答えて大問題になった。
 わずか36日で首になったが、その時、石原慎太郎氏に「あやまれ」と言われたが頭をついに下げなかった。
 彼は終生破天荒な生き方をした。
 落語界に在っても、1983年、自分の師匠五代目柳家小さんと真打昇進制度を巡って決別し、落語協会を脱会、自ら立川流を創設し家元になった。
 本人は天才と言われるほどの才能を持ち、古典落語に広く通じ、これに現代的価値観と感性を表現しようと努めていた。

 人情噺「芝浜」等、彼のすばらしい落語を何度も聴いた。噺の途中で独特の解説を加えたり、時には脱線して時事評論を語り出したり、笑いと涙で、いつも興奮して聴いたものである。
 晩年は、あまりに理屈っぽくなって、声も聞き取りにくく、正直、面白くなくなって、どうしたのかと心配したが、病が心身ともに蝕んでいたからかもしれぬ。
 それでも、いわば談志狂といった人々が熱狂的に集まって、どの会場も満員だった。最後まで決して離れなかった大勢のフアン、立川談志の魅力は少しも衰えることはなかったのである。
 多士済々の多くの弟子を育て、今では立川志の輔、志らくや談春など、切符がなかなか手にはいらないような人気者を送り出している。

 彼との出会いは何時だったのか定かではないのだが、印象に残っているのが、ジャズの薗田憲一とデキシーキングスの演奏会で、興に乗った私と二人で籠を持ってチップを集めて回ったことだ。当時私は30歳代、国会議員一年生であった。
 彼とは妙に気が合って、私の選挙になると頼みもしないのに、突然演説会に顔を出してくれて皆を驚かせた。
 もっとも、彼独特の毒舌だから、時には聴衆と大喧嘩になったりして、後から私が謝りに行くという場面もあった。票を集めてくれるのか散らすのか分からないが、彼にしてみれば一生懸命で、私はその心根が好きだった。

 中央区築地場外市場を地盤にしていた磯野義夫区議(今は息子の忠氏が議員)という私の派の議員がいて、その元に桂文字介という談志の弟子がいた。ここに談志が来てよく一緒に飲んだものである。
 浅草の馬道に、あまりきれいとは言えないとんかつ屋があって、彼は独演会の後などよく通っていた。私の家が近かったこともあって声を掛けられ痛飲したが、そんな折、かれは睡眠薬をかじりながら酒を飲んでいた。辞めるように何度も言ったが、「これを飲むから絶好調なんだ」と言ってきかなかった。
 居眠りをしている客に出て行けと怒鳴り、聞く権利を侵害されたと訴えられる珍事件もあった。
強気に見えて実は小心で、心優しい人であった。自虐的なところもあって、それが命を縮めたのかもしれない。

 1999年食道がんの手術を受けたが、以来、糖尿病、喉頭がんで病院の往復だった。落語への執念から声帯の摘出手術はせず、それが致命傷となったのか・・・。
 何度か見舞いにと思っていたが、声の出ないことを苦にして人に会おうとはしなかったという。
話術、落語に生きた彼にとって、声が出ないことがどんなにつらかったろうかと思うと、可哀そうで言葉もない。
 昔、気の合った友人に勝新太郎という名俳優がいたが、見た目こそ違うが、同じように波乱万丈の人生で、最後は声が出ないで失意のままこの世を去った。

 限りある命と分かっていても、こうして次々と知人を失うと、改めて人生の儚さを感じて空しい思いに駆られる。
 自分の歳と重ね合わせて、あとどのくらい生きられるのかと考えたりする。
 しかし、逆に言えば限られた人生だからこそ、せめて精一杯生きるしかないかとも思う。
 とりあえずは健康に留意し、毎日を大切に生きようと、ひたすら自分に言い聞かせることにした。

 立川談志は生前自ら戒名をつけた。
 「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさいかってこじ)      
合掌