言いたい放題 第234号 「さよなら粕谷茂さん」

深谷隆司の言いたい放題 第234号
「さよなら粕谷茂さん」

 古い友人と言うより、政治家としての長年の同志と呼んだ方が正しいが、さる10月21日、粕谷茂さんが多臓器不全のため亡くなった。
 2年前に心臓の手術をし、そのまま療養生活を続け、結局、病院で帰らぬ人となってしまった。大正15年生まれの享年86歳、私より10年先輩である。
 28日の葬儀に出席したが、遺影は本当に懐かしい素敵な笑顔で、国会議員として全盛期のものではないかと思われた。

 粕谷さんは、父親が区議会議員であったことから政治家を志し、吉田茂元総理の側近といわれた広川弘禅元衆院議員の書生を経て、29歳の時、都議会議員に出馬、3度目の正直で当選し、4期務めた。
 最初の出会いは、昭和44年(1969)、私が33歳で都議会議員になった時で、彼はすでに都議会で輝くように活躍していた。
 私も彼も同じように裸一貫で、ひたすら政治の道を切り拓こうとしていた時代だけに、たちまち意気投合したものである
 当時は、美濃部亮吉知事の時代で、都議会では自民党は野党であった。
 翌年に、粕谷氏が幹事長になり、私は副幹事長に就任したが、二人のコンビで徹底的に美濃部都政を追い込んだ。
 まさに都議会で弁論の華が開いた時で、自民党の議員は次々と質問に立ち、競い合って美濃部知事を追及した。私は美濃部キラーなどと呼ばれた。

 ある時、自民党本部は次期参議院選挙の公認候補に粕谷氏を選んだ
 我々は、彼を国会に送り出すことによって、都議会が国会への登竜門になると狂喜した。
 ところが、そのすぐ後に警視総監であった原文兵衛氏を追加公認し、粕谷氏を外そうとした。
 激怒した仲間たちと、私が先頭になって、時の総理大臣佐藤栄作先生の世田谷の私邸に抗議の為に押しかけた。今、振り返って思えば厚かましい話だが、まさに怖いもの知らず、若気の至りであった。
 激しく訴える私を制して、政界の団十郎と言われた佐藤総理は、「本人が納得しているなら、文句ないのだろう」と優しく微笑んだ。
 「そんな筈はありません。本人の出馬の意思は固く、少しも変わりません」
 「いや、粕谷君は立派だよ、自民党の為に降りると言ってくれたのだよ。今、隣の部屋にいるよ」。
 なんと、扉を開けて当の粕谷氏が困った顔で入って来るではないか。
 「人事の佐藤」とは言われていたが、あまりの見事さに言葉もなかった。
 今度は、寛子夫人が酒肴を用意して入ってこられた。さっきの勢いはどこへやら、たちまち酒宴が始まって、我々はすっかり有頂天になっていた。
 以来、私は女房共々、佐藤ご夫妻に、お亡くなりになるまで大事にされた。忘れえぬ思い出である。

 昭和47年(1972)、私も粕谷氏も衆議院選挙に出馬し初当選を果たした。ちなみに私は無所属、粕谷氏は佐藤先生の配慮で自民党推薦であった。私33歳、粕谷氏43歳である。

 今週発売の週刊新潮の「墓碑銘」に、「9回当選も重要閣僚になれず、粕谷茂の党人人生」と詳細書かれている。心のこもった良い記事である。
 ここでも書かれているが、粕谷氏の真骨頂ともいうべきは、平成3年に行われた東京都知事選挙である。
 現職の鈴木俊一知事と、小沢一郎幹事長が推す元NHKキャスターの磯村尚徳氏が激突した。
 粕谷氏は「東京の知事は我々東京の人間が決める。岩手県かどこかから出てきたような人に決められたのでは困る」と啖呵を切った。
 余談だが、この時、小沢幹事長からの話として、私は磯村派の選対本部長に推薦された。小沢幹事長とは郵政大臣時代に特に懇意にしていたからだ。
 勿論、即座に断ったが、代わりに責任者に就いたのは鳩山邦夫氏であった。
 あの時、私が引き受けていたら、今頃一体どうなっていただろうか。
 私の政治家としての人生は、又、違ったものになっていたかもしれない。危ないところだった?
 私も自民党都連の仲間と必死だった。何しろ時の権力者との一騎打ちの戦いだ。負けたら我々も立場が無くなる。後には退けない知事選挙であった。
 結果は86万票も引き離して我々の劇的な勝利となった。
 その後、小沢氏は自民党から去っていった。

 葬儀は自民党との合同葬で、葬儀委員長は石原幹事長が務め、谷垣総裁も出席した。弔辞に立った麻生太郎元総理は、何度も「男粕谷」と繰り返した
 本当に、「男粕谷だったなあ」と、私の胸は熱くなり、走馬灯のように往時を偲んでいた。    合掌