深谷隆司の言いたい放題 第224号
「出会いと別れ」

 中塚泰蔵さんが亡くなられた。
 留守中だったが、御遺族が訪れて私に葬儀委員長を引き受けて欲しいと依頼されてご逝去を知った。息を引き取ったのは誕生日前日で92歳、10月7日午後3時27分のことであったという。
 
 中塚さんの家は、雷門の私の家の真ん前だ。
 上野から駒形に至る大通りを、歩道橋を渡って降りると、「煎豆、落花生ほていや中塚商店」がある。
 昭和21年創業だから63年経つのだが、今では同業者の中でも大きい店になって繁盛している。特に節分が書き入れ時で、10月末から3月いっぱい、徹夜で豆を家族交代で煎り続ける。
 昭和41年から寿4丁目の町会長を務め、その後、20年余にわたって浅草三社祭の総代を務めた。カンカン帽をかぶりお揃いの紋付き袴姿で、神輿の前後に必ず中塚さんの雄姿があった。

 私との出会いは、昭和40年代初めの頃で、寿町から区議会議員選挙に出馬しようとしていた故石渡金三氏と私を結び付けようとしてくれた時から始まる。
 たまたま東京都議会で汚職事件が摘発され、未曽有の解散選挙が行われることになった。その汚職事件に関わった議員の何人かが、地元台東区選出の人であったので、これは許せぬと、直ちに私は区議を辞職し、無謀を承知で都議選に打って出たのである。残念ながら敗れたが、その差はわずか260票、大いに次を期待されてはいた。
 浪人中は、日本堤の自宅6畳二間で、深谷学習塾を開き女房と二人で子供たちを教えていた。

 そんな時代、中塚氏が私を見込んで応援に乗り出してくれたのである。
 やがて隣町の有力者、ペンギンライター社長の故張替恒男氏が参加、会長に就くや、一気に駒形まで含む大後援会の誕生となった。
 各所に次々と後援会が結成されたが、その全体会議を本部会と称し、ペンギンライターの会議室をかりて常に会議がもたれた。
 東洋一の浅草国際劇場を借り切って、有料の後援会大会を開き、5000人、1万人と後援者を集め、ついには蔵前国技館を借り切って一万五千人の集いを開いて、世間の大きな話題となったものだ。その計画のことごとくは、この本部会の会議から生まれたものである。
 都議会から国会へ、私は一気に駆け登っていったのだが、その火をつけてくれた一人が中塚泰蔵さんだった。
 私と手を握った故石渡氏も順調に当選を重ね、2度も議長を務め、深谷議員団の良きまとめ役、要となって尽くしてくれたものである。

 私はそんなご縁から、長男泰司君と裕子さんの仲人も務めている。隆蔵君、泰子さんでお子様は3人だが、今では孫8人、ひ孫5人の大家族になっている。
 残され奥さんも長らく婦人部長として活躍した。86歳、御主人を亡くしてどんなに寂しいことか、せめて元気でいて欲しいと願っている。
 通夜、葬儀は12日、13日と、東本願寺で執り行われる。私は両日とも予定があったが、すべて取りやめて、せめての恩返しのつもりで葬儀委員長を務める。

 この50年近く、私は懸命に政治の道をひた走ってきた。息つく暇もないほど、である。
 そして政治家である故に、随分多くの人と出会いめぐり合ってきた。本当に嬉しいことではあったが、しかし、出会いの数だけ別れがある。
 今走馬灯のように、様々な思い出が私の脳裏を掛け巡っている。
 そして今日もひとりお見送りする・・・・。           合掌