この歳になるまで、一度は行きたい、見たいと思いながらチャンスがなかったのが徳島阿波踊りだった。
 8月14日、ついに実現した。もとNHKの記者、秋田敏彰夫妻に招待されたのである。

 秋田氏は私が郵政大臣の時の番記者だった。
 当時、私は54歳のまさに働き盛り、しかも初の大臣であったから張り切っていた。「愛の郵政活動」をテーマに全国遊説を行ったり、次々と新しい政策や提言を行い、これを実現させて話題を集め、アイデア大臣と呼ばれたりした。
 そんな時代、彼は番記者というより私のいわばシンクタンクといった存在で、不即不離、いつも良き相棒であった。
 あれから今日に至るまで、実に21年間、まさに家族ぐるみの付き合いが続いた。
 私は政治家であるが故に、起伏に富んだ人生を送ってきたが、良き時も悪しき時も、秋田夫婦は変わらなかった。
 彼の郷里が徳島なのだ。(ちなみに大臣も務めた政治家故秋田大介氏は彼の親戚である)。何度も誘われてはいたのだが、私の都合で機会を逸していたのだ。

 羽田からわずか1時間15分、飛行機は私等夫婦を乗せて憧れの徳島空港へ、ところが、いよいよ着陸態勢に入って滑走路ギリギリのところで、轟音とともに急旋回し、再び一気に上昇するではないか。着陸に失敗してやり直したのだが、一瞬肝が冷えた。
 「飛行機までが阿波踊りをしてくれたのですね」とは女房の弁である。

 午後5時、私たちは紺屋街にある演舞場(桟敷)まで歩いて行こうと街に出た。大変な人出で町全体がお祭り一色で盛り上がっている。機内で一緒であった野球のドカベンこと香川元選手は12日に参加して踊ったと言っていたが、阿波踊りは15日まで4日間続くのだ。(今年の人出は135万人とか)
 商店街に入ると、すでに何組かの、様々な工夫を凝らした衣装の踊り連が練り歩いている。先頭を行く小学生と思しき可愛い女の子の見事な手さばきに見とれて、しばらく足を止めて、「時間ですよ」と催促されたりする。
 一般の観光客もつられて踊りをまね、手足を不器用に動かしている。みんな胸をときめかせ自然に体が動いてしまうのだ。

 桟敷の前から2番目の席に案内されたが、ここは左右すべてが見渡せて
最高の観覧席だ。こんな席が取れたのは、実は地元県会議員来代正文氏のおかげである。
 彼は秋田氏の高校先輩で、しかもNHKの記者から県会議員に転身した人である。60歳台の、活動的で大人気の議員だ。  

 6時、第一部が始まる。
 右手から、三味線、鉦、太鼓、横笛などの「鳴り物」、二拍子の伴奏が激しく鳴り始める。腹に響くような大きな音だ。
 「ヤットーサ、ヤットーサ」の掛け声とともに有名連の踊り手大集団が入ってくる。さすがに良く鍛え上げられ、均整のとれた見事な踊りである。
 一般に「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ」との掛け声が全国的に知られているようだが、有名連はこの「ヤットーサ」の掛け声が多いという。
 「あおい(葵)連」、「のんき連」、「ささ連」、「若獅子連」・・・・と続く。その度に会場がどよめき熱い感動が広がっていく。

 浴衣姿に編笠姿の女踊りは艶っぽくて上品だ。男踊りは法被の半天踊り、あるいは尻をからげての浴衣踊り、時に勇猛かと思えば滑稽であったりと、観客の心をつかんで離さない。
 精霊踊り、念仏踊りが原型と言われているが、400年もの長い間、阿波踊りは日本の三大祭として続いてきた。
 江戸時代、一揆につながると禁止になった時もあったというが、それでも踊りたくて、ある家老が内密で行ってお家断絶になったとか。一度やったらやめられない、まさに踊るあほうなのである。
 2時間、まったく飽きることなく、私達は胸躍らせて見続けていた。

 しかし、その心地よい喧噪の中で、ふと心に過ぎることがあった。
 それは日本の終戦と、さきの東日本大震災のことである。
 次の日は8月15日、日本の終戦記念日だ。(記念日という言葉に違和感を持つが)。第二次世界大戦では310万人の戦没者を出した。どれだけ多くの損失と犠牲を払ったことか。
 東日本大震災が起きてもう5か月になろうとしているが、2万人を超える死者と行方不明者、未だに避難所で暮らす人々がいる。
 ここでこうしていることが、一体許されるのか・・・、阿波踊りを楽しんでいることに、なんだか申し訳ないような思いがあった。

 ここだけは別世界である。どの踊り手も無心で恍惚としている。観客もすべてを忘れて耽溺と言った面持ちである。
 そんな光景の中で、私は、やっぱり、これでいいのかもしれぬとも思った。私も含めて苦しみや悩みを持たない人はいない。今無心に踊っている人も、夢中になって観ている人も、終われば現実の苦労の中を歩んで行かなければならないのだ。
 せめてこの至福の時を精一杯噛みしめればいい。そしてまた新たなこころで決然と前に進めばいいのだ。
 第一、前述のように阿波踊りの原点は精霊を慰めることからはじまっているのだから・・・・。
 この人たちが、こんな風に人生を楽しめるような世の中が、「いつまでも続きますように」と、私は観客席で一人秘かに祈っていた。

 8時、第一部が終わったので、少し名残惜しかったが、私たちはこの夜の宴の「笹乃荘」に向かった。ここは市内でも名店と言われる料亭だ。
 来代県議夫妻も同席、他の会合を抜けてきた来代県議は法被姿のままだったので、これ幸いと阿波踊りを披露してもらった。秋田氏と二人で踊ってもらったのだが、さすが地元、なかなかのものであった。
 三味線はこの店の女将が自ら弾いてくれたが、阿波踊りの旋律は、ゆっくり弾くと都都逸と全く同じであることに気付いて驚いた。
 良い人たちと飲む地酒は格別うまい。三味線に合わせて、私も得意の江戸前の都都逸を披露したが、言うまでもないことである。

 かくして、待望の阿波踊りを堪能し、翌日は「坂の上の雲」で知られる松山に移動した。次回、書きたいと思っている。