今度、歌舞伎立ち役の中村吉衛門さんら二人が人間国宝(重要無形文化財保持者)になった。
 これで116人になる。

 余談だが、同時に登録有形文化財に、浅草にある「神谷バー本館」が答申された。1923年の関東大震災に耐えた近代建築だそうだが、地元に居ながら知らなかった。ここは昔から(親父の時代)、電気ブランで有名だ。若い社長も知っているが、入り口で食券を買うなど、ちょっと気まりが悪く、なかなか行けない。近いうち、私の親衛隊と一緒に是非行きたいと思っている。

 ところで人間国宝だが、このところ縁があって、偶然、二人の国宝の会に顔をだし、改めてその神髄に触れる思いであった。

 まず、7月13日、新内仲三郎さんの会に招かれた。
 ほんの数日前、たまたま、後楽園ドームホテル熊魚庵天麩羅カウンターで隣り合わせになって、すっかり話が弾んだのがきっかけだった。

 実は、私にとって、新内には懐かしい想い出があるのだ。
 私の家は日本堤にあり、そこは、かつての遊郭吉原に接していた。
 新内は、まさにこの吉原を中心に江戸時代の情緒豊かな庶民の音楽として栄えたのである。
 実際は、京都の宮古路豊後掾(じょう)が江戸で豊後節を広めたが、あまりの人気に逆に批判が起こり、禁止令が出た。その後、弟子たちが継承して、そこから常磐津や清元が生まれ、新内も流行った。
 始めは歌舞伎の伴奏音楽として用いられたが、後に吉原を中心に「流し」という独特の街頭芸になった。呼ばれた時だけは座敷に上がるが、ふつうは野外で立って芸を聞かせる。流しは修行でもあったのだ。二人一組、二丁の三味線ですてきな音色で流すのだ。

 私は29歳で東京都議会議員選挙に初出馬して260票差で敗れた。その浪人時代支えてくれたのは靴業界の人達であったが、彼らの中で新内が盛んで、私の為の会合で、新内語りを呼んで聞かせてくれたりした。
 浅草のすし屋の二階での会合で、階段の下で新内に語らせ、聞かせてもらったりしたが、その光景は鮮明に私の脳裏に残っている。
 吉原に花園一声さんという私と同年の女性の新内の名手がいて、人気を博したが、いまは何処へ行ったのか、ついぞ噂も聞かない。

 「縁でこそあれ 末かけて・・・・」、蘭蝶の一節が浮かんでくる。昭和40年代初期、今から40年以上前の若き日の私の思い出の一ページだ。

 新内仲三郎さんの公演は、上野のうなぎ屋亀屋の上階にあるライブステージで行われたが、この店の亡くなった御主人とも、私は都議会議員以来の深い交流があった。ここでも、久しぶりにそのご子息に会えて嬉しかった。
 さすが人間国宝、節も声も素晴らしく、とても70歳とは思えぬ張りのある新内で、あっという間に時が過ぎていった。
 9月27日は三越劇場で20周年の公演があるという。ぜひまた行きたいものだと思っている。

 7月18日、今度は、やはり国宝の一龍斉貞水さんの独演会に出かけた。
 上野本牧亭は、今は黒門に移っているが、これが6畳二間ぐらいのびっくりするような小さな席亭で、膝詰で座っても40人と入らない。夜はどうやら居酒屋に代わるのではないか、右側がカウンター風で屏風の陰から酒瓶が並んでいるのが見えた。
 江戸時代は町内に一軒は講釈場があり、庶民はここで世間を知り、古きヒーローたちの物語に感動したりしたというから、この風情もいいのかもしれぬ。

 私は学生の頃から、政治家になることが目標で、ともかく話術を身につけようと、早稲田大学でも雄弁会に入り、落語や講談も見よう見まねで覚えたものだ。
 今の六代宝井馬琴師は、私と丁度同い年で、その頃、明治大学弁論部に所属していて、ときどき会い夢を語り合う仲間の一人であった。
 貞水師は私の地元湯島に住んでいて、若い頃、私の後援会大会などで司会を務めてくれたりした。
 今や人間国宝、そんなことは頼めない。
 私の叙勲祝賀会にも来てくれたので、今回は是非行かなければと思っていた。
 行ってよかった・・・・。
 今回は連続講談で、「赤穂義士傳」、7回続く。
 「講談師、夏はお化け、冬、義士傳で飯を食い」というのに、何故夏なのかと思ったら、なるほど、丁度12月には「討ち入り」となる寸法なのだ。
 彼も70歳を超え、叙勲の栄に浴している。声量もいいし、何よりも歯切れがすばらしい。
 迫力満点の口跡で、ほぼ1時間20分、一度も客を飽きさせることなく読み切った。

 優れた人を丁重に扱い、人間国宝としてその文化を後世まで残そうという国の配慮は大事だ。しかも彼らは、そのことを名誉と受け止め、倦まずたゆまず精進を続けている。
 70歳を超えても決して老いを見せない。道を究めようとする心は、まさに青春そのものだ。バリバリの現役なのである。

 芸の魅力に引き込まれ、その奥の深さに圧倒された。同時に私も負けていられないと、そんな思いに駆られるのであった。