言いたい放題 第174号 「下駄物語」

 近頃は、すっかり良くなって、極めて順調なのだが、持病ともいえる腰痛等の再発を防ぐために、週に2回ほど近くの接骨院に通っている。
 いつも作務衣姿で雪駄を履いて行くのだが、今日は生憎の雨模様、「下駄を出してくれ」と女房に頼んだ。
 ややあって、ようやく奥から取り出してきた古い下駄の箱を見て驚いた。
 既に変色している熨斗紙がそのまま貼ってあって、「祝誕生 父母」と達筆な筆字で書かれているではないか。
 いつの頃なのか、すぐには判断出来ないが、間違いなく父の字である。
 一度も使ったこともなく、戸棚に仕舞ったままであったが、「確か何処かにあった筈」と女房が見つけ出したのだ。
 母は69歳と早逝し、父は77歳でこの世を去った。二人とも癌に冒されていた。
 母が逝ったのは昭和56年だから、もう30年も前のことだ。だとするとこの下駄を貰ったのは、私が40代前半の頃か。
 もしかしたら、私が衆議員二度目の選挙で、わずか千票差で敗れた後の浪人時代かもしれない。
 返り咲いてすぐ、私は労働政務次官になるのだが、その途中で母は亡くなった。
 箱には、御はきも乃とあって、富士屋製と書いてある。今も雷門にある有名な老舗のものである
 まっすぐに通った見事な木目、今はこのように立派な正目の桐下駄はなかなか見つかるものではない。
 きっとその頃でも、7、8万円はしたのではないかと、丁度来宅中の老女も言っていた。
 決して豊かではなかった、いや、むしろ貧しかった筈の両親が、私を喜ばせようと、かなり無理をして求めたものに違いない。思わず涙がこぼれた。

 私たち一家は、第二次世界大戦で日本が敗れた時、遠く満州のハルピンで終戦を迎えた。
 天国から地獄、私たちの暮らしは一変した。
 ロシア兵や中国兵に略奪の限りを尽くされ、私たちは絶望の淵に追い込まれた。 そんな中、死ぬときは一緒と子供たちを守り続けてくれたのが両親であった。
 一年後、引揚者となって、幾山河を超えてようやく日本へたどり着いたのだが、日本での暮らしも、まさに赤貧洗うが如しであった。
 父は、にわかづくりの靴屋の職人になって、五人の子供を母と共に必死で育てた。厳しい父と優しい母であった。

 当時、浅草下町では、夏になると神社の境内などに土俵が作られ、盛大な素人相撲大会が開かれた。
 私は相撲が得意で、中学生だが大人に交じって五人抜きで優勝して、沢山の賞品を貰ったりしたものであった。
 そんな時、いつも父は付き添うように見ていて、もし負けようものなら、すぐに鉄拳が飛んできた。
 「みっともない負け方をするな」、「恥を知れ」が父の口癖であった。

 今、私が通っている深井接骨院の大先生は、かつて荒川の千住大橋の真下で、連武館という水泳道場を開いていた。
 父に連れられてここで私は泳ぎを覚えた。
 今では知る人も少ないが、昭和24年頃は、東京は戦災で壊滅状態で、工場などはまだ稼働していなかった。
 皮肉なことだが、だから廃液も出ないから、隅田川も荒川もきれいに澄んでいて川底まで見えるくらいであった。
 連武館の上級に昇進する試験は、かなりの距離の対岸まで泳ぎ切ることだった。
 父は初体験の私を心配して、すぐ横で一緒に泳いでくれた。
 悪童達は、「親父がついてくるなんてズルい」とはやし立てたものであった。
 そんな父が「お前は政治家になれ、きっとなれる」と言い続けた。
 政治家になって、なんともう48年が過ぎている。光陰矢の如しである。

 深井接骨院はご子息が中心になっているが、大先生は毎日出勤していて、何くれとなく患者の面倒を見ている。
 私よりも一回り上で80歳を越えられているが、背筋をすっきりと伸ばし、水泳を教えていた時代を彷彿とさせる。
 ここの治療は、低周波の電流を患部に流し、痛みを癒し、細胞を刺激して活性化させてくれる。その後の若い先生の丁寧なマッサージが特に良い。
 今も激しいスポーツを続けている私にとって、ここはリハビリに最適、体の調整の為に週に2回は通っている。

 人生とは、本当に色々のことがあって面白い。
 さまざまな場面で、思いもつかないことが起こったり、考えてもみなかったことに出会ったりする。
 治療に行こうと思って、雨だから下駄を出してくれと頼んだら、はからずも30余年も前の両親の贈り物が出てくる。
 そして、その治療先が60余年も前に、私が父と通った水泳の先生ではないか。不思議な縁で結ばれているのだ。

 雨の日に、古くて新しい、両親の心のこもった下駄を履いて出かけるのは心苦しい。
 改めて、晴れた日に履こうと思っている。