言いたい放題 第165号 「色々に思うこと」

 地方統一選挙が終わって、ようやく一息ついて、今年の連休は京都で過ごした。
 孫たちが交代で訪ねてくるなど、久しぶりに自分の生活を取り戻したような日々であった。
 東日本大震災で未だに苦労している人々のことを思うと心は痛むが、いつまでも自粛自粛では日本経済は沈む一方で、結果的にはかの地の人々の為には決してならないと、自らに言って聞かせている。
 毎朝七時にはホテルを出て、鴨川の岸辺を歩き、時にはまだ覚めやらぬ商店街を、喧噪の時を想像しながら散歩する。昼間の観光も加えれば1日1万5千歩は歩いている。
 京都の町もようやく賑わいをとり戻していて、神社仏閣など何処へ行っても押し合いへし合いで大盛況であった。

 京都には私の友人たちが沢山居る。いわゆるファングループで皆健在、懐かしがって集まってくれる。
 たん熊本家、未在、川太郎、おでんのおいと、お菓子の田丸弥・・・、いつもそうだが、まるで選挙区の応援者の家に顔を出しているような塩梅なのである。
 夜は一力裏の「とも」に繰り出すが、ここのマスターのギター、ラテンものの歌などは秀逸だ。今回は大阪の松本さんの他、井澤屋の夫婦も初参加した。
 高台寺の砂利道で、私は不覚にも足首を少し捻挫した。しかし、例の足腰の神様、護王神社がついている。宮司の心のこもったお祓いで、今はもう回復一路だ。

 帰京した翌日、日本橋産業協会で講演した。この会は地元の人々の集まりで、毎回熱心に勉強会を開いている。
 私は何回も出ているが、この日は日本のエネルギー問題を中心に話すことにした。

 先進国の中で最も資源小国の日本は、圧倒的に石油に頼ってきたこと、そして1973年の石油危機以来、エネルギー安全保障が唱えられるようになり、省石油の空気となって原子力エネルギーに力を入れるようになった経緯を詳細に述べた。地球温暖化で環境問題が声高に言われるようになると、CO2を出さない原子力発電が一層注目された。
 その上、プルトニュウムやウランを再使用出来るようになれば恒久的なエネルギーになるとも期待された。
 しかし、今回の大地震とそれに伴う原発事故で、すっかり悪役となってしまった。
  そして菅総理が浜岡原子力発電所を停止させるという事態にまでなってしまったのである。
 何しろ資源の無い国だ。熟議も無しに原子力発電を即やめろは、あまりにも拙速すぎやしないかと思えるのだが…。
 今回の事故は、津波という予測をはるかに超えた事態となったからである。まさに安全対策に決定的なミスがあったということだ。まずこの点について徹底的に検証する必要がある。今日の高度な科学技術からすれば、安全対策は様々な方法で可能ではないかと思考されるのだ
 必要性と危険性の両面から、まず十分な議論がなされなければならないのではないかと話を結んだ。
 
 実は私は、今月の27日に大阪の関西大学で講演することになっている。これは産経新聞から依頼されたのだが、11日付の社告で一般にも公開されると記載されている。
 内容は、私が通産大臣時代に石油交渉(アラビア石油問題)でサウジアラビアを訪れたが、その当時の状況やその後の日サの関係、あるいは最近激しく揺れている中東問題まで話してくれというものである。
 だから、私にとっては日本橋産業協会の講演は大学授業のようでもあった。

 話が終わって、何かご質問はと言うと、2人の方が手を挙げた
 一人の方は「質問ではないのですが」と断った上で、「学生時代、貴方は東京電力でアルバイトをしていたことがあるでしょう。実は、この間、貴方と一緒にその時働いたという人に会ったのです。くれぐれもよろしく伝えてくださいと言ってました。」
 
 今から実に55年も前のことだ。
 あの頃は、アルバイトにもなかなかありつけない、まさに就職難の時代であった。
 九段にある学徒援護会という斡旋所でアルバイト先を探すのだが、何回もあぶれて空しく帰ったものだった。
 すぐ採用されるのは自動車の運転手か、あとは肉体労働ばかりである。
 だから私は肉体労働が主で、木材運びや、中には上野寛永寺の墓掘りというのもあった。真冬、カチンカチンに凍っているお墓の土を鍬で掘り起こすという作業だが、何しろ手が
 かじかむ厳冬の中の重労働だから、終わりまで続いた者はいない。10人の学生の中で最後まで残ったのは私一人であった。
 お昼になって陽だまりの塀の隅で弁当を食べ、後は墓に向かって、もっぱら演説の練習に励んだものだ。そのころ覚えた落語や講談は、今でも私のお家芸となっている。
 ちなみに、その頃、母に無理を言って250円ずつもらって、自動車教習所に通って免許証を取得した。喜び勇んで学徒援護会に行ったが、経験が無いから駄目ですと運転手のアルバイトは、あっさり断られてしまった。
 今でも免許証を手にすると、貧しかった母が、困った顔をしながらお金を手渡してくれた光景が昨日の事のように鮮明に蘇ってくる。

 そんな状況の中で、ある年の暮、私は東京電力にアルバイトで採用された。いわゆるホワイトカラー族の仲間入りをしたような気分で楽しかった。
 そんな昔、一緒に働いた人からの「よろしく」との伝言には本当に驚ろかされた。
 残念ながら、その方の名前は分らないという。もし、このホームページを見たら連絡してほしいものである。

 もう一人、手を挙げた方は、「京都御所の蛤御門前の護王神社に寄ったら、貴方がここで教育勅語についての講演をしたと話題になっていましたよ。神社の新聞に載った写真も見ました」というのである。人は色々なところで私を見ている。うかうかしてはいられないなと思った。

 数日前、八王子に住むSさんという方からメールが届いた
 「自分が小学校時代、よく父に連れられて、浅草の国際劇場で開かれた深谷骼i後援会に何度も行ったことがある。来賓の中曽根康弘氏がリュウジ君と名前を間違えて言ったことも覚えている。父はすでにいないが、機会があったらお会いしたい」とあった。
 台東区議会議員を辞めて東京都議会議員選挙に出馬して、わずか240票の差で敗れた浪人時代の頃だ。まだ29歳、怖いもの知らずの私は無謀にも、東洋一を誇る5000人も入る国際劇場を貸し切って大会を開いた。
 会費まで集めての大集会だったが、これが大いに当たって超満員、やがて続けて2回開いて一万人の集いとなった。
 ここでの大盛況が話題になって、やがて最高点当選、そして勢いに乗って無所属で国会に躍り出たのであった。そんな古い時代のことをよくぞ覚えてくれたものだと、感慨無量の思いがした。

 ある時、九州宮崎から駆けつけてくれた県会議員戸高保氏は、国際劇場で私への応援演説の夜、都内のホテルで急逝した。私は青年部の仲間たちと泣きながらご遺体を羽田空港に運んだが、そんな悲しい思い出もある。 
 前にも書いたが、戸高氏は、私が早大時代に全国遊説に出かけた時、私の演説をいたく気に入ってくれて、それ以来、亡くなる直前まで支えてくれた忘れえぬ先輩である。
 彼が私に残してくれた言葉は、今でも私の座右の銘になっている。
「誰かが、どこかで、私たちを見つめている、
  誰かがどこかで、私達を支えている、
    そこに私たちの人生がある」

 色々の人から、様々な話を聞いて、改めてこの言葉をかみしめている。


閑話休題
 孫の骭ウが、昨日、初めて這った。去年の10月生まれだが早いのかどうかわからない。妻が私の書斎に大声を上げて飛んできて告げると、私も二階に駆け上がった。
 確かに嫁に向かってほんの少し這い出した。それだけでよほどの快挙のように家中大騒ぎである。
 上の7才になる隆仁は、この子が生まれてから急に私に付き纏うようになった。
 隆仁は7年前の1月25日生まれだ。この誕生日は私にとって忘れられない日である。なにしろ私はこの次の日、大腸癌の大手術をうけたのだ。
 杏林大学病院の私の病室から、妻はいそいそと生まれたばかりの孫の顔が見たくて出かけようとする。
「おいおい、明日手術をする俺を置いていくのか」
「貴方は大丈夫ですから」
「俺より孫の方が大事なのか」
「当たり前でしょう」
 なんとも冷たい妻の背に、聞こえないように毒づいたものだ。
 確かに妻の言うようにあれから私は元気いっぱいで、大丈夫ではあったが…。

 孫の一挙手一投足で家中が大喜びする。
 私にはこの他に3人の孫がいる。安希与、香瑠、麻紀だ。皆いい子で、いつも「おじちゃん」と私一辺倒だ?

「這えば立て、立てば歩めの親心」
 今ではあまり聞けなくなった言葉だが、そんな思いで暮らせる私は本当に幸せ者だと思っている。