言いたい放題 第162号 「会うが別れ」

 遠州流茶道宗家、十二世家元小堀宗慶翁が去る四月二十四日、御逝去された。
 二十八日、練馬区の広徳禅寺で告別式が執り行われたが、格式ある四百年の歴史をもつ遠州流にしては、厳粛ではあるが、やや地味な感じの葬儀であった。
 これが、まさに武家茶道の代表といわれる遠州流らしい静謐さなのかもしれないと思った。
 今年の初釜で伺った時、宗家のお姿が見えず、どうなされたのか心配して尋ねたが、「自宅で療養中です」とのことだった。
 後継者の十三世宗実氏はじめ家族に囲まれて、悠々とこの世を去られた、如何にも宗家に相応しい大往生であった。
 江戸時代初期の大名で茶人小堀遠州が遠州流の流祖だが、作事奉行として桂離宮や名古屋城の建築を手がけ、大徳寺や南禅寺の代表的な造園を残した。書画や和歌を得意としたが、宗家も又その血を受け継ぎ、立派な作品を残している。
 享年八十八歳、惜しみても余りある別れであった。

 宗家とのご縁が出来てから、もう二十六年の歳月が過ぎている。
 長女知美が二十歳になった時、お茶を習わそうということになって、女房が佐藤寛子夫人に相談に行った。総理大臣を務めた佐藤栄作先生の奥様だ。
 その頃私は佐藤先生に特に大事にされていて、よく世田谷のお宅に出入りしていた。

閑話三題
その一
 私の選挙区は激戦区でいつも対抗馬に虎視眈々と狙われていて、悪質なデマも流されていた。その中に「深谷は世田谷の豪邸に住んでいる」というのがあった。
 「下町の太陽」などと呼ばれているのに山手に豪邸とはけしからんとの、轟轟たる批判が起こった。理不尽な話だし、ありもしないことだから、いずれは消えると軽く考えていたのだが、噂は噂をよんで広まる一方だった。
 このデマには相当悩まされ、事実かなりの票を減らしたこともあった。
 何のことはない、世田谷の佐藤邸によく通っていたことから出た噂で、これは利用できると相手陣営が思い、一層広げて、それが何年も続いてだんだん本当のことらしくなってしまったのであった。
 今は、自宅を雷門に建て倅一家と住んでいるが、わかりやすい場所の故か、ようやくこの噂も消えた。ちなみに事務所は日本堤に移した。つまり、自宅と事務所を入れ替えたのである。

閑話その二  
 佐藤寛夫人に伴われて、女房と娘が訪れたのが、当時信濃町に在った遠州流の家元宅であった。決して派手でなく、むしろ地味なくらいで、費用もあまりかからないから、というのは、夫人がここを紹介してくれた理由であった。
 家元の立派な風貌、立ち居振る舞い、何よりも教義の奥深さにたちまち魅せられて、二人は入門することを決めた。娘は直弟子になることになって、さて、入門料、授業料等の支払いとなって、はたと困ってしまった。所持金が足りなかったのだ。
 もじもじしていると、なんと寛子夫人が自分の財布を黙ってそっと手渡してくれたという。後々まで、女房はこの時の様子を、感激をもって話している。
 娘は嫁ぎ二人の子の親になり、女房も忙しくて通えないが、懐かしい良き思い出の一つになっているようだ。ちなみに、女房は教授に、娘は師範となって芳春という庵号を頂いている。

閑話その三
 佐藤総理に、はるか後輩の政治家としてとして可愛がってもらえるようになったのは、私が三十台半ばの東京都議会議員のときからであった。
 当時、都議会自民党の幹事長をしていた粕谷茂氏が、次の参議院議員選挙の公認候補者に決まっていた。私は副幹事長であったが、仲間たちと、粕谷氏が当選すれば都議会は国会への登竜門になると意気込んでいた。
 ところが、しばらくすると、新たに、警視総監を務めた原文兵衛氏が追加公認になり、あれよあれよという内に粕谷氏が外されてしまったのだ。
 烈火のごとく怒り狂った我々は、まさに怖いもの知らずで佐藤邸に押し掛けたのである。
 政界の団十郎と言われた佐藤総理は、にこやかに十数人の都議会議員を応接間に招き入れてくれた。
 私が代表して、口角泡を飛ばす勢いで、なぜ公認候補者を変えたのかとその理不尽さを滔々と訴えた。
 黙って静かに聞いていた総理、「君が深谷君か、元気があって頼もしいな」といきなり私の名前を言うではないか。勿論、私にとっては初対面の雲の上の大政治家だ。名前を知ってくれているだけでもう感激でメロメロだった。
 「粕谷君本人が納得するならいいだろう」
 「いや、本人が了解する筈はありません」
 「彼は、わが自民党の為に、大局的立場から辞任してくれたのだよ」
 「そんなことは考えられません」
 「実は彼は隣の部屋にいるんだよ」
 皆があ然としていると、当の本人が困った顔で隣室から現れたのである。
 さすが人事の佐藤と言われていただけに面目躍如といった具合で、我々は言葉もなかった。
 しかもその時、間髪入れずに「みなさんご苦労様」と寛子夫人が酒肴を持って入ってくるではないか。
 1969年、寛子夫人は沖縄返還協定調印の為に出かける総理に同行し渡米した。その折のミニスカート姿が大きな話題になったこともある。何とも言えない魅力的な人であった。
 以来、私はすっかり憧れて二人の信奉者になってしまったのである。
 そんなことを言ってはいけないのだが、近年の総理大臣とは大違い、つまりは器が違いすぎるのだ。もっとも、総理大臣七年八か月、歴代最長記録の人と比べる方が酷というものかもしれない。
  
 その後、間もなく粕谷氏は自民党推薦、私は無所属で国会に勇躍躍り出ていったのであった。

 1987年、佐藤総理は筑地の料亭新喜楽で突然倒れた。脳卒中であった。
 直ちに病院に運ぼうと連絡を受けた寛子夫人は、断固これを拒んだ。脳卒中患者を動かしてはいけないという鉄則を守ろうとしたのである。
 結局、何日も料亭に留まることになったが、新喜楽は一言も苦情は言わず、その間、休業したままであった。
 筑地本願寺で行われた葬儀に当たって、私は寛子夫人に依頼され遺骨を抱いて世田谷の邸宅から向かった。葬儀場で失意の寛子夫人は私の手を握り続けていた。そんな光景が、何冊かの女姓雑誌にグラビア写真で掲載されたものである。

 遠州流宗家の葬儀の粛々と続く中、私の脳裏に、過ぎ去っていった日の様々な事柄が走馬灯のように浮かんでは消えた。本当に色々なことがあった。 
 私も随分長いこと生きてきたものだ。そしてこれからも私の人生は続いていく。
 会うが別れというが、出会えたことを有難く噛みしめ、これまでもそうであったように、出会った人を大切にしていこうと、しみじみと思うのであった。