言いたい放題99号 「5人目の孫誕生」

 10月15日午後7時20分頃か、入谷の「天三」という天ぷら屋に向かう車の中で、女房から電話がかかった。比較的おだやかな声で、「産まれました」。
 この日、自民党中央区支部の講演会が6時半から、銀座東武ホテルの2階であった。今日は、私が特に気に入っている後輩の石破茂政調会長の登壇だ。今や自民党の数少ないスターの一人とあって、満員の盛況であった。
 その直前、築地の聖路加病院3階に駆け付けていた。すでに嫁のさゆりが分娩室に入ったと連絡を受けたからだ。
 病院の医師があらかじめ宣言していた予定日が、まさに今日であった。
 先月の私の誕生日の9月29日、すでに彼女のお腹は最大にふくれあがって、誰が見ても出産直前の様子で、出来ることなら、私と同じ日にと思ったが、世の中そう都合良くいかない。
 自民党中央支部の総会の挨拶で、民主党政権の主張の誤りを指摘、こんな政治は日本の将来に禍根を残すと憂いながら、何故か、もう一息調子がのらない、力が入らない。病院の方が気になって仕方がないのだ。
 いっそのこと、「実は私の第5番目の孫が今まさに産まれようとしているのです」と、電撃的に言ってしまおうかとの衝動にかられた。しかし、まてよ、自分の後援会ならまだしも、色々な人も居て、異なった思惑や受けとめ方もあろう。ここは我慢のしどころと話を切り上げた。
 後で気が付けば、挨拶の中で歴史的年数を明らかに間違えたりしていた。心の内なる動揺は隠しきれなかった。

 思えば、今から、7年前のことだ。私は大腸ガンを早期発見してもらい、杏林大学病院で手術を受けることになっていた。平成16年1月26日のことである。私にとってははじめての生命をかけての闘いだった。

 丁度、倅隆介の初の子の出産予定日が、なんとほとんど同じ日だ。もしかしたら、新しい生命と私の生命が入れ代わるのではないかとの思いが心の中にあった。しかし何故か不思議なことに、何の迷いも怖れもなかった。
 手術前日、私の病室は無人であった。皆、新しい生命の誕生の劇的立会人になる為に、聖路加病院に行ってしまったのだ。
 一人ベッドで、やきもきしていると、ついに朗報が届いた。25日男児初孫の誕生であった。
 名前は隆仁、私に何の相談もなく、息子夫婦が勝手に決めたのだが、これは親だからやむを得ない。
 しかし、なんとも良い名前で、この子にピッタリ、将来、政治家になっても立派に通る名前であった。
 次の日は、私は4時間に及ぶ手術を無事終えて生還した。
 産まれたばかりの乳児を雑菌の多い病院へ連れてくることはタブーだが、数日後、早く一目みたい私の願いも、叶えてくれた。嬉しかった。

 以来、満6年間、次の出産の話も、何の前触れもなかった。聞くわけにもいかず、少し物足りなさを秘かに感じていたのだが、ついに待望の喜びが私に訪れたのだ。
 くだんの天ぷら屋でワインをしこたま飲んで、いささか酩酊し、さて散会という時、女房から電話、「慌てて出てきたので、自宅の鍵を忘れました。倅が来るまでやむなく隣の日本海という店にいますから、寄って下さい。」
 浅草は住みやすい場所で、どんなに遅くても、どこかに飲む店がある。大衆飲食店日本海も、その1つで、私自身は滅多に行かないが、隣同士のよしみ、よし、今夜は改めて祝杯だと、かの店に飛び込んだ。
 ほろ酔い加減の女房と、娘の知美、それに孫の香瑠、麻紀が居て、その隅に隆仁が俯して寝ているではないか。
 今まで一人っ子で可愛がられ、お母さんから片時も離れられない、甘えん坊の孫に、今日突然、弟が現れた。
 そしてこれから一週間は病院に居る母親とも、離ればなれになる。多感な年頃だけに、なんとも頼りなく寂しくて、どう対峙して良いかわからない。さっきまで泣きじゃくって、やっと眠ったのだという。

 息子も戻って、自宅2階で再びみんなの祝杯延長戦が始まった。
 私は、大の酒好きなのに、一旦酒席が終わると、それ以上はほとんど一滴も飲めない質だ。
 この2ヶ月あまり続いた腰痛をなだめながら、もうぼちぼち鎮痛剤の効き目が切れるなぁ等と思い巡らし、柄にもなく部屋の一隅でぼんやりしていた。
 と、突然「新しい生命がこの世に生まれたのだ」という実感が、たとえようもない喜びと感動を伴って、胸の内から、グッと湧き上がってきた。
 自分でも不思議と思えるような、予期せぬ激情にも似た歓喜であった。
 私は思わず声をあげて泣いた。
 家族の前で、何の躊躇も羞恥心さえなく、ひたすら涙を流していた。無心であった。

 今、賑やかな2階の居間から、1階の自分の書斎に降りてきて、一人鎮座している。
 いずれ私にも人生の終焉の時が来る。しかし、紛れもなく私の血は、子や孫へと伝わっていく。それは永遠で、無限なのだ。
 今、この思いを、特別な目的もなく、心静かに書き残したいと思っている。