言いたい放題 第72号 「花火大会、感慨無量の思い」

 第33回隅田川花火大会が、去る7月31日盛大に開催された。実に95万人の人が集り、花火を楽しんだ。
 去年、私は現職の代議士で、台東区に招かれて二天門の区民会館屋上で見学した。丁度選挙も近いとあって、この会場には区内の有力者が集るから、是非行かなければということも、参加した理由の一つであった。
 今年は、勿論招かれたが、お断りして自宅屋上で楽しむことにした。
 孫達も皆揃っての久しぶりの一家団欒であった。雷門の自宅は4階建てで、今や周囲はビルラッシュ。特にお隣に11階のビルが建ったばかりで、とても見られないと思っていたのだが、なんとそのビルの左右から、第一会場、第二会場の花火がしっかり見えるではないか。
 次々と打ち上げられる二万発の花火を堪能し、みんなで「たまや!」の掛け声、その内、「ふかや!」になって、誰に気兼ねも無く、酔いも手伝って大層なにぎやかさであった。

 ところでこの隅田川花火大会には、私にとっても忘れられない想い出が沢山ある。
 昭和36年(1961年)の大会を最後に「両国の川開き」といわれたこの花火大会は中止となっていた。228年も続いた伝統ある花火大会が中止になった理由は、隅田川周辺に家屋が建て込んで人口が密集し、火を扱うことの危険性が増したこと、そして何よりも高度経済成長と工業化の進展で、隅田川がすっかり汚れて公害汚染、悪臭の川となっていたからである。
 私が満州から引き揚げて隅田川のほとりの台東区立今戸中学校に通っていた昭和24年頃は、底まで見えるほどきれいな川で、よく泳いだりハゼ釣りをしたものだった。
 経済の成長と引き替えに、川の汚染がひどくなったのだが、なんとも皮肉なことであった。

 ちなみに、いわゆる「両国の川開き」は、享保17年(1732年)に発生した大飢饉と疫病の大流行で大きな被害が起こった折、幕府が犠牲となった人々の慰霊と、悪病退散を祈って隅田川で水神祭を行ったのが始まりといわれている。その際、両国橋周辺の料理屋が幕府の許可を得て花火を打ち上げたのである。

 第二次大戦で花火は中断されたが、終戦後の昭和23年になって8月と9月に、それぞれ両国花火組合と東京都観光協会主催で行われた。なんと当時は皇太子殿下とマッカーサー元帥の子息も参加されたという。私はこの文を書くにあたり、隅田川花火大会の歴史を調べてはじめて知った次第である。

 私は花火大会が中止となった2年後の昭和38年に台東区議会議員に当選、44年に都会議員、更に47年に衆議院議員となったのだが、私の数々の主張の中で、隅田川の浄化は大きなテーマであった。
 ようやく40年代に入ってから、政治や行政の効果があらわれて隅田川に小魚が上ってくるようになった。河川の環境が改善されるにつれ、当然のように隅田川花火復活の声が起こり始めた。
 故戸塚与三郎浅草橋町会連合会長らと、私も参加して花火復活の気運を高める為、時には船をくり出してミニ花火大会を催したこともある。
 PRのためにテレビ局にも頼んで、ニュースに取り上げてもらったりもした。
 ある日、岸壁から船に乗り込もうとしたテレビのカメラマンが、川に落ちて大騒ぎとなったことがあった。とっさに船頭さんが飛び込んで助けたのだが、なんとカメラマンはあの重いカメラを離さずしっかりと持ったまま、川から引き上げられた。大した職業意識、責任感だと感動したことを今でも鮮明に覚えている。もはや、そんなエピソードを知る人は居ないであろう。

 その頃の東京都知事は革新知事故美濃部亮吉氏であった。私はなんとか知事を自民党で奪還すべく都議会で連日論陣を張っていた。「美濃部キラー」といわれていたのはその時代である。
 昭和46年の知事選挙で私達は秦野章警視総監を立てたが、その時のねらいの中に隅田川花火復活があった。花火を行うには当然のことだが、交通の問題や安全性の面での規則など、警察の全面協力が不可欠だからだ。
 当時始まったばかりの銀座歩行者天国で、秦野氏を若者達が担ぎ上げ気勢をあげたりした。
 この選挙では、美濃部氏が361万票を超える空前の得票記録をあげ、我々は惨敗であったが、花火復活の気運は間違いなく盛り上がった。
 実現するまでに更に時間を要したが、ついに昭和53年7月30日、17年ぶりに隅田川花火大会が再開されたのである。

 あの頃、私は40代、働き盛りであった。夜空を彩る花火を見ながら、若かったその頃を思い返し、感慨無量であった。