卒寿、90歳を迎えた岡山誠さんのお祝いの会が、台東区のシルバーピアで催された。
 町内の人達で編成するハワイアンバンド、ハートフル・アイランダースの方達を中心に、70人程度の会だったが、岡山さんを心から愛し、慕う人々の心のこもった集まりだった。
 岡山さんは相変わらず蝶ネクタイの似合う粋な人だ。かつて野次将軍と言われた頃の、元気いっぱいな若さはない。耳もかなり怪しくなっていたが、年輪を重ねた凛然とした姿で嬉しかった。

 彼と最初の出会いは、私が台東区議会議員に出馬した頃からだから、あれからもう47年が経過している。
 私は27歳で区議に当選、翌年結婚し、次の年29歳で都議会議員選挙に無所属で出馬し、わずか260票差の次点で敗れた。
 まる4年浪人生活を送るのだが、何しろ貧乏そのもので、当時住んでいた木造都営住宅のわずか6畳2間で、女房と共に、学習塾を開いて糊口をしのいだ。
 深谷学習塾は1日2交代、1日おきだから8教室、近所の応援者の子弟が集って、ほぼ150人の生徒でいつも盛況であった。
 今、私はTOKYO自民党政経塾塾長だ。定員100人のところを、この5年間いつも定員オーバーで、今200人を超える塾生を教えている。46年前と相手こそ子供と大人の違いはあるが、相変わらず塾長で、子弟を育てているのだから、思えば不思議なことで感慨深いものがある。

 この学習塾では、学問は勿論だが、特に人としての礼節に力を入れ、道徳を教えた。夏にはキャンプに連れて行き、冬にはクリスマスパーティーを開き、私はサンタクロース姿になっていつも子供達と一緒に暮らした。
 当時、金杉地区で青少年を集めて、今でいうボランティア活動をしていたのが、岡山誠さんだった。
 多才な人で、スポーツは何でもこなし、口も達者な世話好きの地域の名物男だった。彼もよく子供達を集めてキャンプを行ったが、私の塾生達の時も一緒だった。
 河口湖へ父兄と共にトラックにテント類を積み込んで先行し、夜はキャンプファイヤーを囲んで、私も一緒に子供達と同化した。今改めて振り返ると涙の出るような懐かしい想い出の光景だ。

 選挙になると仕事を投げ出して、必死に応援に駆け回る。特に夜の演説会になると、必ず会場に陣取って、私の演説の要所要所で、間髪入れず大声で野次を飛ばす。
 歌舞伎と一緒で、掛け声一つで盛り上がったり調子が悪くなったりするが、岡山さんのそれは見事であった。(近年は少しタイミングがズレて、怒っているようだという人もいたが・・・。)
 やがて私が政務次官になり、大臣になると、決して出過ぎず一歩退って、相変わらず熱心な応援ぶりだった。私はといえば、いつも彼の姿を目で追うように探したものであった。
 大臣室等で一緒に撮った写真は自分の宝物と大事にしてくれた。
 以前彼を誘って、珍しく2人だけで寿司屋のカウンター席で飲んだことがあったが、終始嬉しい嬉しいと男泣きで、私の方は周囲の客に気兼ねして、すっかり困惑したこともあった。

 卒寿の会で、私は岡山さんとの、そんな思い出話をして乾杯の音頭をとった。ニューヨークから、かつてキャンプに行った教え子(今は立派に活躍中)から、長文の祝電と記念品が届いた。記念品は素敵な蝶ネクタイであった。

 人生とは、本当にあっという間に過ぎてゆくものだ。私など色んなことがありすぎて、一体何が幸せだったのか、不幸なのか判然としないくらいだ。
 しかし、岡山さんの卒寿の祝いに参加して、やっぱり往時、人のために尽くして、そのことをみんなが覚えてくれていて、こうして、ささやかだが温かい心情で囲んでくれることが、最高の喜びなのだと思った。
 何よりも健康で、いつもみんなと一緒に暮らせることが、なんと素晴らしいことかとしみじみと思った。

 昨日は私が氏子の玉姫神社の例大祭。私の日本堤の自宅前に2町会の神輿が勢揃いしてくれた。そしてのべ500人にも及ぶ担ぎ手が盛大に三本締めを行い、私を激励してくれた。
 この数日間、民主党のみっともない交代劇などにうんざりし、又、諸事遅滞も多く、何となく気分が滅入る日が続いた。しかし、岡山さんの素敵なお祝い会と、お祭りでの変わらぬみんなの優しさのおかげで、「うれしい心」を少し取り戻したようだった。