5月25日の午後7時30分からのNHK番組「クローズアップ現代」の取材の為に、スタッフとカメラマン達が21日大勢で来宅、私は熱心なインタビューを受けた。
 丁度、国会で戦後強制抑留者(終戦の時シベリアやモンゴルに抑留された元日本兵)に新たに特別給付金を支給することを決めたが、そのことについての取材である。
 何しろ、第二次大戦が終ってから65年も過ぎていて、往時のことを知る人は少ない。
 それどころか、「アメリカ等を相手に戦争をした」ことさえ、信じられないとする人々が、若い人に限らず圧倒的に占めている時代だ。
 シベリアに抑留された人々に、国が戦後どのように対応したかなど、その経緯を知る人々は極端に少ない。かつて総務副長官だった「深谷さん、あなたはまさに希少価値の人物」ということなのだ。
 といっても副長官時代から数えても、もう28年も経っている。なんとか古い記憶を振り返り、この際だから少し文献も調べたりして正確に伝えようと私は真剣に取り組むことにした。
 インタビューでは小一時間にもわたって充分に語り尽くしたと思うが、実際の報道となると、どうせわずかな時間しか活用されない。
 せめて、戦後問題の一人の「語りべ」として、この際これらの問題を改めてホームページで御紹介し、多くの人に知って欲しいと考えたのである。

ソ連の暴挙
 昭和20年(1945年)8月6日、米はついに広島に原爆を落とした。当時、広島の人口は約35万人だったが、実にその半数近い人が瞬時に生命を失った。
 すでに敗色濃かった日本が、もはやこれまでという時に、なんと日ソ不可侵条約(中立条約)を一方的に破って、ソビエト連邦が宣戦布告したのである。広島原爆のわずか3日後の8月9日未明のことである。ソ連軍は一気に満州に進攻、次々と日本兵捕虜(民間人も含む)をシベリアやモンゴルなどに抑留し、強制的に使役させたのである。
 当時、私はまさにその満州ハルピンの地に、両親と共々住んでいた。
 私の家にも突如ロシア兵が乱入し、金目のものを手当たり次第に略奪していった。
 父が外出した時、ソ連兵に捕らえられて、危うくシベリア送りになる場面もあった。幸い父は満州電業に勤めていて、その証明書が役立って難を逃れた。その時、道路には100人以上の日本人(民間人)が集められていて、やがてシベリアへ送られていったと父は語った。血の気を失った蒼白な父の顔を今でも忘れる事は出来ない。
 私は、今生き残っている数少ない現場目撃者なのである。

強制抑留
 本来、武装解除した日本兵は、本国に送還、家庭への復帰が保証されている。ソ連の行為はこれらを決めたポツダム宣言に背いた違法行為であることは言うまでもない。
 シベリアあるいはモンゴルに抑留された日本人は、当初57万人といわれ、後に厚生省は65万人を定説とした。しかし、更にソ連が崩壊した後、モスクワの国立軍事公文書館には約76万人分の資料が残っていた。
 アメリカの研究者の中には、軍民合わせて約107万人がシベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと発表した人もいて、正確な数は今でも分からない。
 シベリアは帝政ロシア時代から流刑地で、過酷な環境での強制労働の地であったから、これも正確ではないが約1割の人が死亡したといわれている。6万人から10万人という数字になる。
 左派社会党視察団が、この地を訪れたことがあったが、抑留者からの過酷な労働についての訴えの手紙を握りつぶし、国会で「とても良い環境だ」と虚偽の発言をし、大問題になったこともあった。
 日ソ国交回復したのは昭和31年(1956年)のことだが、これまでに帰国事業が行われ、47万3000人の日本人が帰国した。
 本来国際法では、捕虜として抑留された国で働いた場合、賃金は所属国が支払うことになっている。
 ただし、「労働証明書」が必要で、南方地域で米英の捕虜になった日本兵には払われた。なんとソ連の場合は労働証明書さえ発行せず、従って法に基づき政府は賃金を支払うことが出来なかった。
 やがて、ロシア政府がやっと労働証明書を発行したのは平成4年(1992年)のことで、まさに後の祭りであった。
 丁度、細川政権時代、時のエリツィン大統領が日本を訪れる前年のことである。私は、当時予算委員会で、エリツィン大統領は日本国民に対して謝辞すべきだと論陣を張った。実際、エリツィン大統領は訪日の折、謝罪を行ってマスコミの話題となった。その背景に、私の国会での発言が影響していると密に自負しているが・・・。

補償問題
 シベリア強制抑留者への労働賃金の支払いは、前述のように無理であった。政府は、恩給法で抑留加算を設け、未帰還者留守家族等援護法によって抑留者の留守家族に対しても留守家族手当を支給した。又遺族及び傷病者に対して恩給、年金等の支給、療養の給付等を行ってきた。

 戦争は、国民全体に何らからの損害を与えるものである。ある意味全国民が戦争被害者なのだ。
 そこで、戦後処理問題というのは、戦争損害の補償などについて、国民が納得出来るように、如何に公平化されるかが最大のテーマとなる。
 戦後、政府はその段階段階に応じて様々な戦後処理を行ってきたが、引揚者の在外財産問題の決着したことを機に、昭和42年政府与党間で戦後処理は一切終決したことで合意した。
 ところが、その後戦後40年経過しても、各々の立場の人々から強い補償等要望は尽きることがなかった。裁判も・・・。
 そこで、昭和56年12月、政府与党は識者を集め「戦後処理問題懇談会」を発足させ、ここで残された問題を検討させ、その提言を実現させることによって、全ての戦後処理問題にピリオドを打つことにしたのである。
 翌57年、第一次中曽根内閣が発足し、私は総理府総務副長官に就任した。46歳の働き盛りで、当然、この戦後処理問題に関わりをもち、この識者達の発言を見守る立場となったのである。
 前述のようにNHK記者の言う、「当時のことを具体的に知る数少ない生き残り(まだ若いのに)」という訳なのである。
 結局、この懇談会は2年半かけて真剣な議論がなされ、昭和59年12月報告書が出された。

懇談会の答申
 この懇談会で扱われたテーマは3問題で、(1)戦後強制抑留者問題(2)恩給欠格者問題(3)在外資産問題であった。
 (2)については、わずかに軍歴期間が足らないということで年金恩給の支給を受けられないのはいかがかということだ。しかし、受給資格年限等は、年金制度の基本的要件、約束事であるから、軍人のみについての変更は、他の人々との社会的衡平からみても無理ということであった。
 (3)のテーマは、まさに私にも関係することであった。敗戦後に世界各地に残された海外居住者は、引揚げの時全ての財産を失った。しかし、国際法上にも国内法上にも在外財産に対して国の補償義務は書かれていない。だから、従来行った引揚げ時の応急援護、定着援護、給付金の支給、特別交付金の支給等以上の対応は出来ないという結論であった。
 しかし、辛酸を知るこれら戦争の被害者達は老齢化し、日本の繁栄の中に取り残されつつある。
 戦後の日本の復興と発展に自ら寄与したことを思い合わせて、政府によって特別な基金を創設し、これをもって戦後処理に終止符を打つとの提言となった。

基金による支援
 かくて、昭和63年(1988年)認可法人平和記念事業特別基金(後に平成15年独立行政法人)が設立されたのである。
 基金は、最終的に400億円となるが、この内200億円を取り崩し、様々な事業を行ってきた。(例)関係者の苦労を後世に継承する事業として資料収集展示や、慰霊碑建設(千鳥ヶ淵)、書状、銀杯贈呈、強制抑留者への10万円慰労金交付(国債)等である。

新たな給付金?
 今回、国会に提出され決定となるのは、いわゆる「シベリア抑留者」だけを対象として、新らたに特別給付金の支払いと実態調査を行うというものである。
 給付金は日本への帰国の時期に応じて、昭和23年12月末までの人25万円、5段階に分けて昭和30年1月1日の150万円を一時金として支給するというものである。
 現在生き残っている方は、わずか7,8万人といわれ、相当老齢化しておられ、同情を禁じ得ないが、しかし、正直、私の心の中に「今、何故」という疑問は残っている。

 戦後処理問題の最大のポイントは、前述のように私は公平性にあると思っている。
 重ねて言うが戦争では全国民が犠牲者だ。それらの人々への補償は財政問題を考えても100%要求に応えられるものではない。
 国が出来る限りの努力を尽くすことは大事だが、国民が等しく痛みを分かち合い、納得出来るものでなければならない。それが衡平ということだ。
 これを公平を横糸とするならば、縦糸は年数・期限である。
 昭和63年発足した平和記念事業基金で行うことで、戦後処理問題の全てを終了するはずであったのが、戦後65年経た今、又新たな法律で支給するというが、いつまで続くのか、今度こそピリオドを打つということなのか確認したいところである。
 今、話題の「事業仕分け」にこれを持ち出したら、どういう議論が行われるのだろうか。
 基金の残りが200億円あるから、みんな使って分配するという考えに、果たしてすっきり了承するのだろうか。
 
 老齢化したシベリア抑留者の姿を見ると、言うべき言葉にも躊躇心は残るのだが・・・。