日本相撲協会の理事選挙で貴乃花親方が世間の予想を覆して当選した。
 今まで、協会の理事選挙は、事前に各一門が候補者を調整して無投票で決めるのが慣例になっていて、その為、この8年間、事実上選挙は行われることがなかった。
 大相撲は、高田川部屋を除いて、5つの伝統的な一門に分かれている。
 いわば、政界の派閥のようなものだが、それよりももっと古い体質で結束も固い。
 門閥の中から、あらかじめ決めた理事候補以外に、もし名乗りをあげようものなら、それだけで糾弾され、追い出される。
 今回の場合も、貴乃花の立候補宣言に、武蔵川理事長は露骨に不快感をあらわにし、彼を支えようとした6人の親方は、二所ノ関一門から事実上破門されてしまったのである。
 近年、次々と起こる不祥事もあって、世間からも激しいバッシングが起こり、実際、観客の相撲離れも始まっている。
 投票する側にも、この状況をなんとかしなければという思いもあって、その動向が注目されていたのだが、結局、計10票での逆転当選となったのだ。
 あきれたことに、今まで選挙が行われた場合、投票箱の前にデンと立会人が座っていて睨みをきかせ、誰に投票するか監視していたという。
 今回、さすがに公平な選挙を行おうと、誰に入れたか分からないように、投票用紙の候補者名に○をつけるなど工夫がなされた。
 貴乃花の当選について、どのマスコミも慣例を覆したとばかりの大騒ぎだが、あらかじめ7票はわかっていて、一部の親方が一門の枠を超えて投票したとはいえ、わずか3人だけで、投票数111票からみれば、およそ改革の気運とはほど遠い。
 理事選後、引き続いて武蔵川理事長が満場一致で決まったが、これからどのように変わっていくのか、正直言って期待している人は少ないのではないか。

 ところで大相撲での改革とは一体何なのか。そこから考えていく必要があると私は思っている。
 そもそも、相撲はスポーツであるとはいえ、一般のそれと較べて、あまりに異質の部分が多い。
 近代スポーツというよりも、むしろ伝統文化と考えた方が近いのではないか。
 ある意味、歌舞伎のような様式美が求められている。
 江戸時代にもっとも栄えた相撲だが、その時代と全く同じで、力士は髷を結い、まわしを締めている。言葉を変えればチョンマゲにフンドシだ。外国人には奇異に映り、相撲をやる人も一時はパンツの上からまわしを締めたりしていた。
 外国人初の力士高見山が、マウイ島で相撲クラブに入り、裸でショートパンツの上にまわしをつけた時、とても恥ずかしかったと述懐している。

 高見山は関脇にまでなり、引退して東関部屋を興し、横綱曙や今の高見盛を育てた。
 ハワイ出身者はもう一人も居ないが、「プッシュプッシュ」で皆から好かれた。
 当時は、他の部屋との交流は全く無く、師匠も怖くて近寄れなかったというが、40年以上前は上下の関係もはっきりしていた。

 化粧まわしは、各々、贔屓筋から贈られた立派な刺繍等で彩られている。ずらり並んだ関取の土俵入りは絢爛豪華、横綱の三役揃い踏みともなると、その堂々たる雲龍型と、不知火型といった伝統的な型の壮大さに、観衆はどよめき酔いしれる。
 観客はといえば、まず土俵周囲の「たまり」といわれる場所に常連が占めている。
 客席は後方の椅子席を除いては、大半が桟敷になっていて、ここでは飲食自由だ。
 お茶屋から次々と運ばれる仰山なご馳走に舌つつみを打ち、又酒を酌み交わし、時々野次や声援を飛ばし、まさに宴会気分で盛り上がる。
 一体、相撲以外に、飲食自由、宴会気分で見られるスポーツがあるだろうか。

 江戸時代、相撲は興行として大いに人気を得たが、三役力士は、おおむね大名家お抱えとなっていて、藩士として高額な報酬を受けていた。
 明治に入ると大名家は無くなるが、藩閥政治の有力者が以前と変わらず力士を遇した。
 地方に行くと、勧進元から大歓迎を受け、人気力士になると御祝儀が集り、その懐はいつも潤沢であった。
 お礼は「ごっつあん」という簡単な言葉と、あとは土俵で見事に勝つことを考えればよかった。
 だからその頃は、八百長もごく当たり前のことであった。
 今でこそ横綱は最高の地位であるが、昔は横綱という地位はなく、大関が最高位であった。
 行事の総元締であった吉田司家が、やがて大関の中から横綱という称号を与えるようになったのだが、地位として正式に定められたのは明治42年からである。余談だが日本酒には「大関」はあるが「横綱」はなかった。
 その頃、豊かな境遇にあったのは三役をつとめる花形力士、看板力士ばかりで、他の力士達は、極めて貧しい暮らしであった。
 彼らが、ようやく一人前の生活が出来るようになったのは昭和に入ってからだ。だから、力士達はひたすら強くなろう、なりたいと必死になって激しい稽古に明け暮れたのである。
 今ではそんな言葉も聞かないが、かつては師匠から、若い衆は「土俵を掘れ」と叱咤激励されたものだ。
 何度も何度も投げ飛ばされ、身体で土俵の砂を掘るようにして励み、強い力士になっていく。
 土俵の中にはいわば金銀財宝、名誉や地位が埋まっている。土俵を掘るように鍛えて地位や名誉を得ろということなのである。
 腰を強くする為に寝る時も身体を折り曲げるようにして眠らされ、腹を出して大の字に眠るのはもってのほかと、そこまで徹していた。

 一般に何もかも古いと思われているが、実は大正14年(1925年)に日本相撲協会は財団法人として誕生し、色々な改革が進んでいる。例えば他のスポーツに見られないような様々な待遇改善が為されている。
 社会保険組合もあるし、厚生年金制度も導入されていて、むしろ福利厚生面から見ると、他のスポーツよりよほど充実している。
 文部科学省所管の公益目的の財団法人だから、毎年、収支報告書の提出が必要で、何かあれば文部科学省から注意や勧告も行われる。

 よく相撲は「日本の国技」といわれているが、これは必ずしも正確ではない。国の機関によって正式に国技と認定されている訳ではないのである。文部科学省の所管法人であるからということと、両国に初めて常設館が生まれた時、「両国国技館」と名付けられたことが、どうやら根拠となっているようだ。
 辞書通り読めば、要は、その国の特有の技芸ということなのである。
 今ではほとんどの人が、「国技」と思っているのだから、別に否定する必要はないが、国技ならせめて国技という名に恥じないようにしてくれ、というのが率直な思いである。

 私が相撲と関わりをもったのは、かつて事務所が蔵前国技館と隣り合わせであったということと、なによりも私の敬愛してやまぬ政治家、故稲葉修氏と深い交誼があったからである。
 新潟県村上市出身の稲葉氏は、中曽根派に所属し、文部大臣、法務大臣を歴任した文化人である。
 常に飄々として和服姿で国会に通い、優しいが毒舌家でもあった。
 お酒好きで、議員会館に行くと、奥さん手作りの弁当で、ワンカップ大関をいつも嬉しそうに飲んでいた。
 昭和40年代、世間も全体的に大らかなよき時代で、若手議員の私を格別可愛がってくれていた。大相撲にもよく御一緒したものだ。
 横綱審議委員会の委員をしていて、春日野理事長(元横綱栃錦)や、二子山理事長(元横綱若乃花)、最後は出羽海理事長(元横綱佐田の山)と深い交流があった。
 千秋楽の後、私も一緒に理事長らと駒形のどぜう屋に行ったり、時には浅草の料亭にあがって痛飲したこともある。
 横綱時代、土俵の鬼といわれた春日野理事長は、なかなか粋な人で、あの大きな身体で、日本舞踊を細かい振りで器用に踊ったりした。
 1992年、稲葉氏は議員在任中に逝去されたが、村上市で行われた葬儀には、私は出羽海理事長らと一緒に参列した。
 直後に、稲葉夫人や御子息の稲葉大和氏らが、稲葉氏の後継者として、私を横綱審議会委員に推薦してくれた。
 丁度その頃、他の筋から海部俊樹元総理も推挙されていた。政治家2人がぶつかりあうのもどうかということで、結局、2人とも委員にはならなかった。もっとも、これは後に聞かされたことで、真偽の程は定かではない。

 昭和51年、私は蔵前国技館を借り切って、1万5,000人を集めた大決起集会を開いたこともあった。
 政治家が国技館で後援会の大集会を催したのは、後にも先にも私しか居ない。
 又当時、フジテレビの正月番組に、「大相撲対プロ野球オールスター歌合戦」や、「大相撲部屋別対抗歌合戦」という番組があって、人気を集めていたが、その大会委員長として私は長年テレビ出演していた。
 力士や選手達の中には、実際にレコードを出した歌の上手な人が多くて、知名度も抜群だった。増位山や琴風、野球では平松や田尾の姿が今でも私の脳裏に残っている。不況もあったが、次第にスターが少なくなって、それも番組が終る原因の一つであった。
 現在、私は松ヶ根部屋の後援会長をつとめている。
 親方はかつて南海の黒豹といわれ大人気の大関若島津、おかみさんは歌手としてスターだった高田みづえさんだ。鹿児島出身とあって、故山中貞則氏が後援会長であったが、晩年山中氏からの強い依頼があって引き受けた。
 松ヶ根部屋には、残念ながら今は十両、関取がいない。
 そんな訳で私は相撲の世界とは、様々な関わりをもっていて、だから相撲に寄せる思いは格別に強い。

 丁度、この原稿を書いている2月4日、横綱朝青龍の引退が自ら発表されて、又、大騒ぎとなっている。
 今年の初場所で泥酔して、知人男性に暴行を加え、なんと鼻骨骨折など全治1ヶ月の重傷を負わせたのである。
 週刊新潮によると、朝青龍は、「川へ行け、お前をそこで殺してやる」と脅し、丁度、西麻布の交差点で交通事故の実況見分中の警官に助けを求め、事態が発覚したという。
 普通なら、明らかな現行犯逮捕なのだが、何故か帰された。
 本人と高砂親方は、次々と言い訳めいた発言を繰り返し、結局は自ら責任をとらざるを得ない結果となったのだ。
 横綱の品格云々と、又、マスコミがにぎやかだが、この件はまさに傷害罪で、いくら示談書を提出しても、おそらく書類送検となること必至であろう。本来なら相撲協会による解雇など厳罰が当然で、自ら引退宣言をさせたのはむしろ、寛大な処置といえる。
 まあ、それにしても、この朝青龍、よくぞ数々の不祥事を起し続けたものだ。
 腰痛と称して夏巡業をやめて、実はモンゴルでサッカーに興じて2場所も出場停止、時津風部屋に出稽古に出掛け、プロレスまがいの技をかけて豊ノ島に2週間の怪我を負わせたり、何度も泥酔で暴れて厳重注意を受けたりと、彼のトラブルは枚挙にいとまがない。
 いくら歴代単独3位の25回優勝最高在位7年といっても、これでは横綱で居られる道理はない。
 いくら言っても、本人は強ければいいのだと思い込んでいるのだから、相撲界に残ることなど土台無理な話である。
 モンゴルで彼はすでに、実質上オーナーともいわれるASAグループというレジャー産業を興している(力士の副業は禁じられているが)。
 解雇ではなく引退という名の依願退職だから、「養老金」や「特別功労金」も出るし、断髪式を行う引退相撲も催せるから、数億円は手に入る。
 モンゴルでは圧倒的な人気だから、元小結旭鷲山のように国会議員に転身することも可能だ。29歳とまだ若いから、その前途は良くも悪くも洋々といえるのだ。
 朝青龍の引退をめぐって、モンゴル国内では、強すぎるからやめさせた等と、日本への批判の声も起こったようだが、これはとんだお門違い。モンゴル外務省は、「対日関係に影響を与えるものではない」と異例の声明を出したりして極めて冷静だった。
 師匠の高砂親方は、監督責任を問われて役員待遇委員から主任に2階級降格と決まった。お気の毒に約40万円の減収だ。
 現役朝潮時代、先にあげた私の番組に何度も出て、「大ちゃん」と人気があった。あの朝青龍に振り回されて、親方として言い訳ばかりで、厳しい指導も出来なかったのだから、むしろ当然の結果である。

 ところで、「横綱の品格」についてだが、どこにそのような規約があるのかというと、横綱審議委員会の、横綱推薦基準及び引退勧告の基準の規定にある。
 推薦には、「品格、力量が抜群であること」と明記されている。逆に引退勧告については、「横綱としての対面を汚す場合」とあって、これは今回の鶴田卓彦委員長が、武蔵川理事長に提出した勧告書にも書かれている。
 しかし、横綱の品格が問われる理由には、いわゆる日本伝統の「武士道精神」という背景があり、そのことの方が重要と私は思っている。
 大ベストセラーとなった「国家の品格」で、著者の藤原正彦氏は武士道精神の復活を訴えておられる。この中で、武士道精神とは慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠、これに加えて「名誉」と「恥」という意識であって、それが鎌倉時代以降、日本人の行動基準、道徳規準になっていると書いている。
 確かに、こうした武士道精神は剣道や柔道の分野で、現在でも立派に残っていて、それが指導の原点になっている。
 私は中学時代から空手を習い、後年、蔵前に「司誠会」という名の道場を開き、多くの子弟を育てて来たが、「礼に始まり礼に終わる」と教えたものである。
 相撲も、日本武道の精神を伝承して、だから、「相撲道」といわれるが、当然のことながらこの精神が規範となっている。
 だからトップの座に選ばれた横綱に、品格を強く求められるのは当然のことなのである。
 勝った時のガッツポーズについてもやかましく、かつて朝青龍に協会から厳重注意が為されている。
 そのくらいは許されてもいいのではないかという声もあるが、先に述べたように、まさにこれが「惻隠の情」で、相手の不幸を思いやる武士道精神からいえばガッツポーズは相入れない。
 もっとも、外国人力士に、この極めて日本的な思想が、どこまで通用するのか、ここが難しいところだ。
 モンゴル相撲では、とにかく強ければ多少のルール違反ぐらいは許されるというではないか。

 今年の正月場所、千秋楽の前日に、私はいつものように家族で最前列の桟敷に居たが、取り組みが進むにつれて、次々と外国人力士ばかりの登場となって、鼻白む思いだった。なんとも日本人力士は弱くて、不甲斐なくてやりきれない。
 日本の国技といっても、これでは全くの看板倒れだ。まずは強い日本力士の育成こそ急務なのだ。
 外国人力士について、なんとか制限出来ないかとの声も多いが、実はその制限はとっくの昔に出来上がっている。
 1992年、境川理事長(就任時出羽海親方)は、外国人を各部屋2名、全体で40名と規制し、その後、北の湖理事長になって、原則1名と決めている。(ただし、それまで複数人居た部屋は特例として現役力士に限り容認)
 部屋数は52部屋あって、力士の数は682名だが、今、そのうち外国人力士数は54名で全体の8%にあたり、実は驚くほどの数ではない。
 彼らはモンゴル力士にみられるように一般的に貧しい出身で、まさにハングリー精神で、相撲こそ立身出世が可能な場なのだ。その上、はるばる異国の地へ来たという思いもあって、相撲にかける情熱も大きい。練習も格別熱心で、着実に強くなって階段を駆け上っていく。
 幕内になると、42名中16名が外国人となって、実に38%以上を占めるようになる。三役では50%、横綱ではついに100%と、外国人力士の独占状態となっているのだ。強くなるのは外国人ばかりなのだ。
 この世界では、各部屋の親方を中心に、いわゆる師弟関係で結ばれていて、まるで親子のような型で一家を成している。
 親方夫人はその名の通りおかみさんであり、母親なのだ。
 まだ、社会経験もない10代から入門し、限られた空間の中でひたすら稽古に明け暮れる。
 彼らと接すると、会話も少なく愛想も悪くて、なんだと思う時もあるが、顔と身体は立派だが、世間知らずの子供達なのだ。
 時代背景も大いに違ったから、特に日本人の場合、忍耐ということが苦手で、少し激しい稽古をつけると、たちまち音をあげて辞めてしまう。
 松ヶ根親方のように、優し過ぎるとなかなか関取は生まれない。
 時には閉鎖的な状況の中で、過剰な扱き(しごき)もあって、時津風部屋の時津風親方が逮捕されたような事件が起こったりもする。
 本当にやっかいな世界ではあるのだ。

 一方、江戸時代と似たところもあって、上下の立場の差は激しい。
 十両以上が関取と呼ばれ待遇もしっかりしている。しかし、それ以下となると関取の付き人で、冬でも素足に下駄履きだ。
 大部屋とはいえ住居と2食付きだが、場所手当や奨励金を除いて、日当や宿泊費もなければ、退職金も幕下以下には出ない。
 関取になれば給料制になって十両で103万6,000円、前頭130万9,000円、横綱ともなれば282万円になる。その上、給金(褒賞金)、勝ち越し、金星などが加算される仕組みになっている。優勝賞金も幕内となれば1,000万円にはねあがる。
 他のスポーツ選手と比べて高いか安いかわからないが、合計すると横綱の年収は4,500万円以上になり、これに例の懸賞金(1本6万円)なども含めると相当の収入になることは間違いない。
 ただ、引退後、協会に残る為には年寄株を取得しなければならず、時にこれが数億円かといわれ、黒い噂になったりもする。
 部屋を持つ親方の場合、部屋維持費、稽古場維持費、力士養成費、養成奨励金などが支給される。
 特に養成奨励金の場合、関取の階級によって額が増え、大関や横綱が居ると216万円~376万円と極端に高くなって部屋は大いに潤う。問題の高砂部屋でいうと合計約5,000万円に及ぶが、それだけに横綱には気を使い、厳しい指導も文句も言えない立場になったりするのだ。

 こう考えてくると、これからの相撲界の在り方についての議論は、まさに百家争鳴となること必至だ。
 貴乃花が逆転で理事となって、大いに期待されているが、どんな改革が出来るのか。
 何よりも、相撲界にとって大事な精神的支柱は武士道だ。この精神が失われつつある現状を思うと、むしろ第一に求められるのは、改革ではなくて、逆に良き伝統への回帰ということになるのではないか。
 そして、何よりも強い日本人力士の育成だ。外国人ばかりの活躍では客が離れる一方だ。
 部屋という家族的なきずなを残しながら、幕下以下の待遇改善など、やらなければならないことも多い。
 閉鎖的な相撲協会をどう改革していくのか・・・。
 回帰と改革、この二律背反ともみえる課題に向かって、関係者が真剣に努力していくことを望みたい。
 そして更に大事なことはファン層をより拡大していくことだ。特に子供達に、だ。
 今、学校の体育授業では、剣道、柔道、相撲が選択制となっている。しかし相撲を選ぶ子は少ない。なによりも良き指導者が居ないのだ。
 かつて、私が中学時代(昭和20年代)、街では相撲大会が盛んで、夏になると神社の境内などに土俵がつくられ大賑わいであった。
 私は赤ふんどし姿で、大人に加わって5人抜きなどで優勝して、たくさんの賞品をもらって、ちょっとした町の小さなスターだった。
 いつも目立ちたがり屋で、「やぐら」とか、「けたぐり」など、派手な大技が得意だった。
 早稲田大学時代、体育で相撲を選んだが、やがて相撲部からスカウトされて、明治神宮で行われた8大学リーグ戦で中堅をつとめたこともある。
 もっとも、本格的な相撲は立ち合い一瞬で勝負は決まるから、大向こうをうならす素人相撲の大技は通用せず、全敗で、応援に来た家族はあきれて帰ってしまった。
 私が区会議員になった頃、丁度、台東体育館の建設計画中で、私は相撲場をつくることを提案し、反対を押し切って実現させた。
 今も、この道場は続いていて子供達でにぎわっている。
 JC(青年会議所)がわんぱく相撲を開始して、一時期、子供達の相撲が盛んになったが、この輪をもっと拡げていくことも大事なことである。
 各所に土俵施設をつくる、立派な指導者を育成する、相撲協会が、明日のファン層を獲得するためにやるべき仕事は多いのだ。
 1人の相撲ファンとして、回帰と改革を見守りたいと思っている。