言いたい放題 第33号 「出会いと別れ」

 1月22日の朝、日本堤の私の事務所に三重県の警察に勤める廣瀬さんという方が訪ねてこられた。
 あいにく私は不在で、秘書も名刺とおみやげを受け取っただけで帰してしまったという。
 一瞬、どなたかと考えたが、すぐに頭に浮かんだ。14年前に世話になったあの人だなと思い当った。
 私は早速、名刺にある三重県大台警察署に問い合わせたが、まだ東京にいるということで、それでは至急連絡をとって欲しいとお願いした。

 平成6年、細川・羽田政権崩壊後、私達は旧社会党の村山富一氏を中心に連立内閣をつくり、彼を総理大臣に擁立した。
 その村山内閣第2次組閣にあたって、私は自治大臣、国家公安委員長という2つの大臣を兼務した。
 その頃、オウム事件や阪神淡路大震災の後始末や、更に雲仙普賢岳災害の再支援策など、様々な難しい仕事が山積していた。
 又、国際会議もあって、オタワで開かれたテロ対策大臣会議への出席など、あわただしい日々を送っていた。
 全体的には極めて順調に大臣の仕事をこなし、政治家として納得出来る充実した日々であった。
 新しい年を迎えると、総理大臣以下全閣僚が、伊勢神宮に揃って参拝に行くのが恒例になっている。
 平成8年の年明け、村山総理一行が伊勢を訪れることになり、私も閣僚の一人として、女房も伴って参加した。
 SPの他に地域の警察官の何人かが、各々の大臣について警備するのだが、私の担当になったのが、廣瀬さんであった。
 現地では役目上、私と女房とは別々の行動になる時が多いが、そんな折、心配して女房に親切に対応してくれたのも彼であった。
 あれから、すでに14年も経過したが、忘れた頃に季節の挨拶があったり、時に上京すると突然私の事務所に寄ってくれたりしていた。

 うまく連絡がとれて、その夕、浅草のステーキ屋「すきずき」で一杯やろうと再会となった。
 私の場合、出来るだけいつも家族と一緒だから、孫も含め一家勢ぞろいで彼を迎えた。
 実は、あれから私は一度も会っていないから、彼の顔は正直定かではない。おそらく道ですれ違っても判らない。
 ところが、彼は私のことを充分承知で、私の日々の行動まで熟知していた。いつも他人とは思えなかったという。
 テレビ等の報道でちょくちょく私を見ていたようだし、なによりも私のホームページの熱心なファンであった。
 今、続いているこの「深谷骼iの言いたい放題」も大のお気に入りで、「過日の田中角栄さんとの想い出話は楽しかった」とか、酔うほどに、むしろ私よりくわしい程であった。
 こんな離れたところでも、私を思っていてくれる人がいる。出会いやめぐりあいをアダやおろそかにしてはならないと改めて思った。ホームページも一層頑張ろうと心に決めたのであった。
 本当に愉快な、時間を忘れる程楽しい再会の一夜であった。

 最近のことだが、飛騨の高山から招待状が届いた。招待してくれた主は、かの地で料亭を営む、熟練の古参板前、川原節男氏である。今度、国から「現代の名工」という指名を受けた。ついてはその祝賀会に是非、出席して欲しいというのだ。
 平成11年、私は小渕内閣で通産大臣を拝命した。
 総理から格別の依頼を受けて、臨時国会を「中小企業国会」と名付け、36年ぶりに中小企業基本法の改正を実現したり、バブルがはじけて苦境にある中小企業経営者の為に、貸し渋り対策として、実に30兆円にのぼる緊急融資等を実施したりした。
 又、愛知万博の実現をはかったり、時には石油交渉でサウジアラビアに渡り、かの国の大臣と丁々発止とやりとりしたこともあった。(平成20年初版 「明るい日本を創る」角川学芸出版 参照)
 そんな公務に明け暮れている時でも、地元対策を片時もおこたることは出来ない。なにしろ、名にしおう最も難しい選挙区だからだ。
 特に恒例の後援会旅行会は、支援者の結束をはかる為の大事な行事で、その頃で37年間も続いていた。
 丁度次の旅行会は飛騨高山で行おうという計画があって、私は現地の下見を行うこととなった。
 翌平成12年、第38回旅行会は高山グリーンホテルで実施された。
 すでに国会は森内閣に代わっていた。私は通産大臣に再任されたのだが、その年の選挙で思わぬ敗北となってしまった。だから旅行会実施の時はまさに最悪の無冠の立場となっていた。
 旅行会そのものは大盛会で、私は女房と共に5泊6日滞在し後援者と大いに語り、又、現地の人々とも交流した。
 中でも、旅行会一行が立ち寄るドライブイン「板蔵」の牧野秀也社長や早川文男氏とすっかり親しくなって、一夜、社長に招かれた。
 土地の素朴な人々が集まって、三味線太鼓での賑わいとなり、独特の節回しの民謡を聴かせてくれたりする。
 離れた土地の、暖かい人々の心に触れ嬉しかった。現職大臣のまま破れ、浪々の身になった私の心の密かな痛みを、知らんぷりして癒してくれたのであった。
 一段と盛り上がった時、牧野氏の提案で、深谷後援会をつくろうということになって、会長に推し上げられたのが、長老川原節男氏だったのである。
 以来、会うことも少ないが、飛騨に行けばいつもよき仲間が居て、必ず三味線太鼓の大宴会が始まる。ふる里のない東京っ子の私にとって、大事な第二の故郷となったのである。
 ところが川原氏の祝賀会となんと同じ2月22日、同時刻に東京で、私の後援組織都市研究会会長、長堀守弘氏の叙勲祝賀会が開かれることになっている。しかも、私はその会の主賓である。
 残念で申し訳ないが、飛騨には行けずお断りするしかない。
 なんとかあの出会いのすばらしさを私は決して忘れていないことだけは伝えたい。心をこめて長い長い祝電を送ることにした。
 「先生の名前で生花は勝手に出しますから御心配なく」牧野社長から重ねての連絡であった。
 政治家であるが故のことだが、私には数えきれないほどの出会い、めぐりあいがある。
 本当に幸せ者だと思っている。

 1月21日、早稲田大学時代の親友、神谷成男君の葬儀が八王子であった。
 ほんの数日前、肺炎の為、急遽東海大学の救急センターに運ばれたが、もう手遅れのようだと連絡が入った。
 直ちに私は彼の病室に駆け付けたが、病床で酸素吸入を行なっていて意識も朦朧としていた。

 一般の人と比べればはるかに友人が多い筈の私だが、さて親友となると意外にも指折り数える程しかいない。
 早大時代、3人の親友が居た。
 名古屋出身の牛嶋峰武君は、新宿の大学近くに下宿していて、当時本当に貧しくて、いつも空腹だった私は、彼の下宿へ行っては食べものにありついたものであった。
 彼が不在の時は、鍵もない部屋だったから、勝手に上がりこんで御飯を炊いて食べたこともある。
 芸術家を志す姉上が一緒で、「深谷君はみんなと違う。必ず世に出る人だ」と常々、言ってくれていたと何度も牛嶋君の口から聞かされていて、大いに私の自尊心をあたためてくれたものであった。
 卒業後は、彼は兄と共に、名古屋にある川北電機工業株式会社を支え、後に社長に就任した。
 国会議員になってから、大臣の折も含めて、彼に会いに何度も名古屋を訪れたが、相変わらず私をもてなして、食事を御馳走してくれるのはいつも彼だった。
 やがて、病を患い、会う度に悪くなっていて私を心配させたが、そんな時でも杖をついて私を迎え、「ここがうまいから」と、自分は食べられないのに私を案内してくれたのであった。
 平成19年1月、ついに彼は旅立ってしまったが、勿論葬儀には私も参加した。
 彼の棺にかぶりつくようにして、孫の幼い男の子が、「言うことを聞くから」「ちゃんと勉強するから」と、何度も繰り返している姿に私は泣かされた。
 流行の「千の風になって」の歌が葬儀場に流れていた。

 平成20年11月、もう一人の早大時代からの親友、水野勇君がこの世を去った。
 彼は、私の家の近くの北千住に住んでいて、いつも一緒に都電で早稲田へ通った。
 私は昭和38年、台東区議会議員に初出馬したが、その時、事実上の選挙事務局長を務めてくれたのも彼である。
 学生時代、常に行動を共にし、私が全学連の左翼学生運動に対抗して、保守派の学生組織を旗揚げして、全国を遊説した時も一番身近な存在であった。
 ある時、全学連書記長とテレビ討論をする為に北海道の札幌に寄ったことがある。私の生まれて初めてのテレビ出演だ。
 上野駅から蒸気機関車に乗り、青森から津軽海峡を渡る青函連絡船に揺られて、と長い旅であったが、2人は眠ることも忘れて、大いに青春の夢を語り合ったものだ。
 やがて一家を構え横浜に住んだ。折々に痛飲したが、定年退職後、一時国会の私の事務所を手伝ってくれた時もあった。
 晩年は度々病に倒れたが、いよいよ無理かという時、連絡してくれて一緒に病床に見舞ったのは神谷君だった。
 帰途、「お互いに身体を大切にして長生きしようぜ」と、あれほど言っていたのに・・・。
 神谷君の場合、なにしろ医者嫌いで、少し悪くても売薬で済ませてしまうのが常だった。肺炎で苦しいのにギリギリまで彼は病院に行かなかった。
 病床ですでに意識が薄れていたが、それでも私に気づき、両手を出して力一杯手を握り、必死に何かを語ろうとしていた。
 「大丈夫、俺の気を送るから、回復してくれ、又、一緒に飲もうよ」と私は精一杯呼びかけた。
 何度もうなずき、彼の頬を一筋の涙が伝った。
 それが最後の別れだった。
 葬儀場で、ああこれで早大時代の3人の親友を全て失ったなぁと悲しかった。
 その夜、高校時代の2人の親友夫婦を誘って妻と共に、ささやかな私達だけの通夜の宴を持った。
 山田君、吉岡君から「この前、君の親友が亡くなった時も、俺達を誘ってくれたナ・・・」
 「もっと会う回数を増やそうぜ」と思わず私は言ったものだ。

 出会いと別れ、喜びと悲しみ、良くも悪くもそれが人生だから仕方がない。
 せめて限られた生命を燃やして、精一杯生きたいものだ、と思っている。