1月元旦、1時と3時にわけて小沢一郎民主党幹事長が自宅の世田谷の豪邸で大新年会を催した。
 今や飛ぶ鳥落とす勢いの小沢氏だけに、なんと集まった衆参の国会議員は166名に達し、その権勢を天下に見せつけたような大イベントとなった。

 折から、小沢氏にまつわる疑惑追求の手は、刻々と具体的な形となって小沢氏周辺に迫り、ついに1月13日、彼の資金管理団体である陸山会はじめ、個人事務所等に大がかりな東京地検による捜索が入った。
 準大手ゼネコン西松建設と小沢氏側との違法献金事件は、東京地検特捜部が2008年6月に捜査に着手したことから始まった。
 以後、岩手県奥州市に建設中の胆沢ダムなど東北地方のダム建設について、小沢氏側に口利きを頼んだことなどから、2009年3月には、小沢氏の第一秘書が政治資金規正法の虚偽記載容疑で逮捕されるに至った。
 大体、政治資金規正法違反による強制捜査は、贈収賄や脱税などといった、より悪質な重大な犯罪の摘発が後に控えている場合というのが常識である。今回、胆沢ダムを受注した大手ゼネコン鹿島本社や東北支店を一斉に捜索したことからも、東京地検は相当な確信をもって捜査に踏み切ったと思われる。

 小沢氏の場合、これが初めての疑惑ではない。
 私が激しく闘い辞任に追い込んだあの細川連立政権の1993年の時も、ゼネコン談合事件が起こり、当時、新生党代表幹事であった小沢氏の名前が取り沙汰された。
 民主党代表になる際も、政治資金をつかって、都内に複数のマンションを購入した問題が追及された。
 最近、何故か小沢氏は、企業団体献金廃止論を主張している。散々、企業団体から、表も裏も含めて莫大な資金を調達した御本人がいうのだから、なんとも不思議な話ではある。

 小沢氏は、この秘書逮捕の翌日、記者会見して、「これは国家権力の不法な行使だ。公権力が思うまま権力を行使したら、国民の人権を守ることは出来ない」と厳しい口調で批判し、まさに検察側に宣戦布告したのである。「法律が法律として通らない国にしてはならない、法が無いなら法を変えないと国民は不幸な目にあう。私は戦う」とも発言した。
 自分の疑惑に関する当局の追及を、あたかも戦前のような国家権力行使と決めつける。国民の不安をあおるような発言だが、明らかな責任転嫁・議論のすりかえである。国民にとってはなんとも迷惑な話である。
 
 しかも、過激な小沢氏の検察批判の後も、次々と新しい疑惑が公になっている。
 今、大きくクローズアップされているのは小沢氏の資金管理団体「陸山会」が、2004年に4億円にもなる土地を購入したが、その出所についての疑惑である。
 この件については、かつての秘書、現民主党の石川知裕代議士がすでに事情聴取を受け、今回、彼の事務所も捜索された。
 陸山会の複数の口座に多額の金額を分散入金したり、それをまた同会の1つの口座に集約したりしている。購入原資を隠す為の工作と思われ、これはまさにマネーロンダリングだ。
 収支報告書にも4億円の記載はない。
 胆沢ダムについての談合事件で、主要工事の下請けに入った中堅ゼネコン水谷建設の関係者が、計1億円を小沢氏側に渡したとマスコミ各紙が報道している。こうした時期と土地購入の時期とが重なっているという。
 東京地検特捜部は、小沢氏本人から直接事情聴取を行う方針を固め、1月5日に聴取を要請した。小沢氏も、これに応ずる姿勢だと報道されたが、実際は拒否していたようだ。その上なんと聴取内容を限定することを条件にしたり、多忙を理由に引き延ばしたりしていたともいわれている。井山裕太名人と囲碁対局を楽しんだりしているのに、どこが一体多忙なのか。
 小沢氏は1月12日に記者会見を開いて「何らやましいところはない」と大見得を切った。その傲岸無礼な態度を見て、当局は最終的に強制捜索に転じる覚悟を決めたと思われる。

 圧倒的な議席を持ち、人事・カネ等の権限を握っている、今、最も権力のある小沢幹事長に対して検察当局は、全容解明にどこまで踏み込めるのかわからない。しかし、相当な自信を持って小沢氏と対決しようとしていることだけは確かであろう。
 正月の大新年会、昨年の600人による中国訪問も含めて、一連の小沢氏の権力誇示の動きは、捜査の状況と決して無縁ではないように思われる。

 私は、これと全く同じような光景を想い出している。
 ロッキード事件で有罪となり、最後まで法廷で争った、あの田中角栄氏のことである。
 昭和51年(1976年)、アメリカロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑で、5億円の受託収賄罪と、外国為替・外国貿易管理法違反で田中氏は秘書の榎本敏夫などと共に逮捕された。
 首相経験者が逮捕されたのは、昭電事件で逮捕された芦田均氏以来初めてである。
 昭和58年(1983年)の東京地方裁判所は懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を下した。控訴するも昭和62年の二審判決も同じ。更に上告したが、平成5年、田中氏が死去し、審理途中で控訴棄却となった。

 田中氏が総理を辞任したのは昭和49年だが、このロッキード事件をはさんでもなお闇将軍と呼ばれ、病魔に倒れるまで実に10年余、国を動かす力を維持し続けた。
 キングメーカーとしての田中氏の力の背景なくして、大平正芳氏、鈴木善幸氏、中曽根康弘氏の総理は生まれてはいない。
 実に3代の政権に影響力を及ぼしたことになる。
 こうした権力の背景には、数において他を圧倒する強固な田中軍団があった。
 田中氏はその資金力も、又、選挙の強さにおいても抜群の力をもっていた。
 たとえ刑事被告人であっても、ともかく田中氏の元に集まれば、金も地位も確実に保証される、多くの人々はそう信じていた。
 目白台の邸宅には、いつも陳情客がひきも切らなかった。政治家も役人も列をなして田中詣でを続けたのである。

 一方で田中氏自身からすれば、強気の姿勢とは裏はらに、ヒタヒタと迫り来る有罪判決の怖さも大きかったのではないか。身と心を守る為に、ひたすら強力な言動で権力の座を誇示し、維持する必要があったのではないだろうか。
 当時、比較的、近くで見ていた私は、そのことをいつも感じていた。小沢氏の最近の動きをみて、そっくりだなと感じるのもその故である。

 私は当時、中曽根派に属し、田中派とは無縁であった。
 私が無所属で衆議院議員に初当選し、4年の任期を終えた時、三木武夫総理は任期満了選挙を行った。私はわずか1,000票の差で惜敗した。昭和51年(1976年)のことである。
 田中角栄氏の元で秘書を勤めた鳩山邦夫氏が初めて立候補し最高点で当選、私と入れ替わったのだ。
 私の選挙区(当時東京8区)は、とかく変動の多いところで、毎回必ず現職議員が落選するというジンクスがあった(今も相変わらずだが)。
 私が初当選した時は、現職の社会党の依田圭五氏が破れ、その後は、共産党の金子満広氏や公明党の中川嘉美氏がいつも入れ違いに当落を繰り返していた。

 傷心の私に、地元の実力者、明治座の三田政吉氏(故人)が声をかけてくれて、「深谷さんは、目白台に挨拶に行ったことがあるか」とたずねた。
 「いえ、私は中曽根派ですから。顔を出したこともありません。」
 「君はそういう片意地なところがいけないのだ。目白台は文京区だ。地元の大先輩に挨拶に行くのは当然ではないか。君が破れて一番残念がったのは田中角栄さんで、何度も私に惜しい若手を落としたと言っていたよ、早く訪ねるといい」。
 確かに私には、政治家として筋を曲げたと思われたくないという頑ななところがあった。この際は是非、伺わなければと意を決して、女房共々初めて田中邸をおそるおそる訪ねた。
 正門をくぐると、正面の控室には、30人位の先客が居る。例の陳情客だ。これは長く待たされるなと思っていると、秘書が伝えてくれたとみえて、奥から例のダミ声が聞こえて、なんと御本人があわただしく、ずかずかと現れるではないか。
 「やあ、深谷君よく来た。さあ、奥に入ってくれ。」待っている人におかまいなく私達を御本人が直接案内してくれる。
 田中角栄氏は終始上機嫌で、初めての訪問なのに実に1時間近くも語り続けてくれた。
 「まさか君が落ちるとは思わなかった。君の支援者はみんな残念だ、惜しいことをしたといっているよ。今日から6万人の人と握手をしなさい。そして、どこに誰がどんな暮らしをしているか、頭の中にたたきこむんだ・・・」。
 大声で熱っぽく語る田中氏に、私も女房も、その驚くべき魅力にすっかり引き込まれていったものだった。
 最後に、「鳩山は次は落ちるよ。君は必ず最高点で当選する。俺が保証する」とまで言い切った。
 「若い者が真剣に努力することは国にとって本当に大切なことだ。俺は君から連絡を受けたら、たとえ夜中でも起きて君と会う。必ず来てくれ。」
 帰り際、なんと田中氏は下駄をはいて玄関まで送ってくれたのである。
 帰途の車中、私と女房は思わず涙を流していた。

 2年8カ月の浪人生活の後、私は最高点で返り咲いた。
 自民党の鳩山氏と山田久就氏、二人共落選、まさに田中氏の言われた通りの結果であった。

 昭和59年、私の父政雄が逝去した折、田中氏が弔問に訪ねてくれた。
 その12月大晦日、私は女房と共に、御礼をかねて御挨拶に田中邸を訪れた。
 相変わらず上機嫌で、奥に通されたが、翌日の元旦をひかえて、大勢の代議士や役人の新年会の為に、大宴会場が設けられ、100席以上の椅子が並んでいた。
 今思えば、小沢一郎氏の今回の新年大宴会場とそっくりである。
 その誰も居ないガランとした会場に、机をはさんで3人が座った。
 「深谷君飲むか」と、いきなりオールドパーの瓶を開けてくれる。私は咄嗟のことで少しあわてて遠慮して、「いえ、結構です」と辞退すると、今度は「奥さん、飲むか」。「はい、いただきます!」女房の元気な声に私のほうがびっくりした。
 結局、3人で飲み続け、語り続け、とうとう1本空にしてしまった。私達夫婦にとって、たまらなくなつかしい想い出の一頁である。

 その年、団結を誇っていた田中派に、実は次第に乱れが出始めていた。   
 次の自民党総裁選に、田中派(木曜クラブ)から、会長の二階堂進副総裁を擁立させようとの構想があり、それに反発した動きが始まっていたのだ。その中心は竹下登氏、小沢一郎氏らで、それに中堅若手の政治家が集まり、新たな組織の旗揚げをしようとしていた。
 翌年(昭和60年)、国会で特に親しかった友人の佐藤信二代議士(佐藤栄作氏の御子息)から声がかかった。
 「田中先生が、孤立して寂しがっている。君が行ったら喜ぶから、顔を見せてくれないか。」というのである。
 この2月7日、ついに竹下氏を中心とする創政会(後に経世会)が発足しているのだ。
 田中氏はかなり心を痛めていると聞いていたので、早速、田中邸を訪ねた。喜んで迎えてくれた田中氏は、相変わらず元気だった。政治に対して終始意欲的で、創政会のことには一言も触れようとしない。
 さすがしっかりしていてビクともしないのだな、と感心しながら大いに議論に花を咲かせた。
 しかし、途中、私の手元のお茶が無くなった時、そして辞して帰ろうとした時、それに気付かなかった秘書に、突然烈火の如く怒り出したのだ。びっくりするような大声をあげたのである。身を震わすようにして怒鳴る。初めて見せる田中氏の姿に、私は異常なものを感じて愕然としたものだった。
 それから数日後の2月27日、田中氏は脳梗塞で倒れた。
 この世に鉄のように完全に強い人は居ない。所詮、人の本質は、限りなく弱いものである。どんなことが起きても心底耐え切れる人はいないのではないか。
 田中氏は、それから8年、言語障害や行動障害で、政治活動は全く不可能となって、平成5年12月16日、ついに75年の生涯を終えた。

 私は小沢一郎氏を頭から嫌っている訳ではない。小沢氏とのわずかな触れ合いの中に、氏のよき一面を垣間見た時代もある。
 田中角栄氏とよく似たところがあって、一見、剛気で一本気で、なによりもあまり人の悪口を言わない人だ。
 
 だが、今は政権政党の幹事長、最大の権力者の座にある。自らの誤りや弱さを糊塗する為に、権力を振り回しているのだとすれば、あまりに情けない。
 小沢氏がやるべきことは、いさぎよく当局の求めに応じ、国民の前に事実を明らかにすることだ。政治家として責任を果たすことだ。政治家は国家国民の為に、常に己を律し、出処進退を明らかにしなければならないと私は思っている。
 鳩山首相といい、小沢幹事長といい、それにしても民主党はなんと指導者達の金にまみれた政権政党なのか。このような政党に日本の将来をまかす訳にはいかない。
 自民党現職の諸君、もっと真剣勝負をかけてくれないか、と腹立たしく思っているのだが・・・。