言いたい放題 第29号 「正月の初体験」

 平成22年の初春を迎えた。
 久しぶりに無冠での越年で、私は孫達と共に箱根で過した。
 例年ならば、正月元旦の仕事始めは、まず皇居に招かれての新年行事から始まる。
 天皇皇后両陛下に松の間で拝謁し、例年、おおむね「年頭にあたり人々の幸せと世界の平安を祈ります」とのお言葉を陛下からいただく。政治家として、「よし今年も国家国民の為に頑張ろう」と厳粛な気持で決意を新たにする時である。
 民主党の岡田外務大臣は、こうした天皇のお言葉について、「もっと御自身の意思を示してもいいのではないか」と、昨年、発言して物議をかもした。
 天皇は日本国の象徴として公平無私を原則としている。確かにいつも同じような内容であるが、「人々の幸せと、世界の平和を祈る」以上の心のこもったお言葉があろうか。
 憲法も理解していない能天気な発言にあきれたものだが、このような人を外務大臣にいただく日本は本当に寂しい。
 拝謁後は、豊明殿で新年の宴が始まる。
 皇室行事の序列は年齢の順だから、この数年は皇族の一番近くで食事をいただく機会にめぐまれていた。
 こうした光栄に、30年近く浴した訳だが、今年は議席を失ったので招かれることは無かったのだ。うーん、残念・・・。
 しかし、逆にいえば、まさに久しぶりに、一家水入らずでの元旦を迎えることが出来たのだから、どちらが本当に幸せなのかはわからない。
 いずれにせよ今回の休みは、神から与えられたチャンス、やっぱり私は幸せ者と思うことにした。

 最大の楽しみは、なんといっても箱根学生駅伝(第86回東京箱根間往復大学駅伝)を直に見、応援することだ。実はこれは私にとって、生まれて初めての体験なのである。
 東京大手町から、神奈川・芦ノ湖まで往復217.9キロを、19校と関東学連選抜の計20チームが参加して争われた。
 私の場合、母校は早稲田大学、客員教授を勤めたのが東洋大学、息子が青山学院大学だから、応援も忙しい。
 2日早朝、わざわざ芦ノ湖まで出掛けて折り返し地点を確認、なんと8時からもう陣取っている人々がいた。

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 湖水からの寒風の中、昼の1時過ぎまで待つのも大変だが、ファンというのは、そんなことは物ともしない。ふと、私は自分の後援者のことを思った。どんな時でも必死に支えて下さる支援者の姿を考え、少し胸が痛んだ。

 私の応援する場所はこのコースの最高地、芦ノ湯だが、午後1時になると、こんな山の中なのにどこから集って来るのかと思うほど、周囲を大勢の人が埋めつくしている。

 まず東洋大学、話題の柏原竜二選手が、私の前を駆け抜けていった。一瞬の風だ。

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 山登りの5区で、昨年はこの柏原が4分58秒差を大逆転して往路優勝を決めたが、今回は、なんと7位からの6人抜きだ。「新・山の神」と呼ばれる彼は、今年20歳、山に挑むひたむきな姿がすばらしい。
 あっという間に、次々と選手達が走り過ぎていく。
 ひたすら自分の大学に誇りを持ち、一途に走る若者達、けなげで純粋で美しい。私は思わず目頭を熱くしたのだった。

 2日目は朝8時、少し場所を変えての応援だったが、さすがに人は少ない。
 出発点から2キロ程度のところだから選手もまだ疲れていない。「頑張れ!」と声をかけると先頭をいく東洋大の市川選手がにっこりと笑顔で通過した。これも胸にじんときた。張り合いのある声援のコツは、観客の少ないところに限る。
 結局、東洋大学は2年連続優勝、心配した早稲田大学は7位、青山学院大学はなんと41年ぶりに8位の1ケタ台で、共に仲良くシード権を獲得した。

 舞台の台詞ではないが、「こいつは春から縁起がいいわい」であった。

 ところで、この箱根駅伝には、我が家の自慢が1つある。
 96歳で逝った女房の父親、井上正孝が、昭和5年(1930年)第11回の駅伝から4年連続出場しているのだ。
 しかも、柏原選手と同じ、花の5区なんですよ(急に口調が変わったりして)。
 当時、井上は東京文理科大学生(現・筑波大)で水泳部に所属していたが、スカウトされて、駅伝選手となった。
 多くを語らない義父であったが、時折、酔って女房には昔のことを語ったようで、面白い逸話が沢山残っている。
 そもそもこの駅伝は1920年2月14日に始まった。
 これはアメリカ大陸で行われる継走での横断マラソンに参加する為の代表選考会であった。ロッキー山脈越えを想定し、山のある箱根のコースが選ばれたのであった。
 日本人オリンピック選手第1号の金栗四三の発案で、長距離マラソン選手を育成し、五輪で日本を強くしようとする狙いもあったという。
 その頃は学生の本分は勉強ということで、授業が終ってからスタートすることもあったようだ。
 だから、山登りの5区になるとまっ暗闇の中を走ることになる。
 地元の青年団が松明を持って伴走したが、危険を避ける為に縄で結びあっていた、又、選手はゴムを縫い付けた足袋を履いて走ったと、これは義父の談である。
 ちなみに、今回柏原選手は5区を1時間17分8秒で走ったが、義父の1番早い時は第14回大会で1時間40分45秒であった。
 義父が出場した4回の大会で、優勝は早稲田大学が3回、慶應大学が1回で、東京文理科大学はよくて6位(参加11校)であった。
 井上正孝は、後に剣道の世界を選んだ。東海大学や玉川大学で教え、数々の本を残した。
 玉川大学では終身名誉教授となって子弟を教えていたが、90歳の折、私に、「骼iさん、この頃、強くなったような気がする」と語って私を驚かせた。たまたま、弟子の1人から、「井上先生が構えると、入っていけない」と聞かされたから、これは本当のことに違いない。
 駅伝で鍛え、剣一筋に生きた明治の人は、その気骨において、今生きるわれわれの及びもつかない強い存在だったと、改めて思っている。

 マラソンの父といわれる金栗四三氏についても、面白い話題はつきない。
 彼は大正元年(1912年)、スウェーデンのストックフォルムオリンピックに日本人として初参加した。その年、予選会で世界記録を27分も縮めたとあって、大いに優勝が期待されたが、途中日射病で倒れてしまった。
 記録的な暑さで、参加者68名中、およそ半分が棄権、ポルトガル選手は、翌日死亡するという最悪の状況であった。
 昭和42年(1967年)スウェーデンオリンピック委員会は、ストックフォルムオリンピック開催55周年の式典を開いたが、金栗翁も招待された。
 記念式典の開催にあたって、オリンピック委員会は、記録を調べていたが、金栗氏が競技中「失踪して行方不明」となっていることに気づいた。
 つまり、本人から棄権の意思がオリンピック委員会に届いていなかったのだ。棄権していないのだから、金栗翁に改めてこの式典でゴールさせようということになった。
 金栗氏は競技場内に用意されたゴールテープを切った。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3、誰も破ることの出来ない世界一遅い記録となった。
 金栗氏は「長い道のりでした。この閨A5人の孫ができました」とスピーチしている。
 オリンピック委員会は「これをもってストックフォルムオリンピックの全競技日程を終了する」と宣言した。(ウィキペディア参照)
 なんと大らかな、心あたたまる話ではないか。
 粋なスウェーデン人の心根、これに伝説に満ちた金栗四三氏のユーモアに富んだ対応、その光景を想い、私の心は春風のように和んでいる。

 若者達の、「一途に走る姿」、いいなァ。日々どんなに苦しい訓練を重ねて来ていることか、まさに「忍耐と、努力」の結晶だ。
 スウェーデンオリンピック委員会の「大らかな心」、「相手を慈しむ心」も素敵ではないか。
 今の時代、ともすると忘れられているもの、欠けているものを、これらの光景が私達に教えてくれているように思える。
 
 今年、一体、どんな年になるのだろうか。
 少なくとも私は、この正月味わった、初めての体験を大事にし、政治の道を一途にひた走る。そして大らかな心で、多くの人々と触れ合い、さわやかな心で日々を過していきたいと思っている。