沖縄返還後の核再持ち込みについての密約問題が、今、大きな話題になっている。
 折から、その文章の存在が佐藤栄作元首相の御子息、信二氏の手によって公にされて、一層注目を集めている。

 私にとっての沖縄は格別の思いがあって、それは早稲田大学時代の想い出につながっている。
 その時代は、日米安保改正をめぐって、過激な労働運動が展開された頃で、これに全学連(全日本学生自治会総連合)が加わって激しい戦いが各所で起こっていた。中には日教組など、本気で日本に革命を起そうと考える人達がいて、警察や機動隊と対決し、まさに騒乱状態であった。
 私はといえば、そうした左翼学生に対抗して、保守派の学生を結集し、全日本雄弁連盟を結成させ、自らその先頭に立っていた。
 自民党に初の学生部を誕生させたのもその頃である。
 「学生よ学園に返れ」と全国を遊説したり、戦没学徒の慰霊祭を、神田共立講堂でわれわれ学生自身の手で催し、愛国心を訴えた。
 沖縄返還運動も、私達の重要なテーマで、全国にキャンペーンを繰り広げたものだった。

 第二次大戦の時、日本国内は米軍の爆撃機による空襲が続き焦土と化したが、中でも最も悲惨であったのが沖縄で、唯一、戦場となった場所である。
 沖縄県民50万人の島に、なんと米軍はあわせて54万人を投じたという。
 陸軍7万、海軍陸戦隊9千、これに県民義勇軍2万5千が迎え撃った。
 そして、大人達だけでなく、中学生や女子高校生まで狩り出され、中学生は「鉄血勤皇隊」、女子高校生は「ひめゆり部隊」と名乗って戦場を駆け巡ったのだ。いたいけなそれらの少年少女の死ほど痛ましいものはない。
 後に彼らの霊を慰める為に、健児の塔、ひめゆりの塔が建てられたが、そこには今も、「いわまくら かたくもぞあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」と刻まれている。
 私は何度もこの句を演説に引用した。
「今日の日本の繁栄は沖縄の人々の犠牲の上に成り立っている。生命を投げ出して日本を守った沖縄の人々の愛国心を忘れてはならない。沖縄の日本復帰こそ、彼らに報いる道だ」と訴え続けたのである。
 後年、私は27歳で台東区議会議員になるが、その時の選挙演説は、地方政治のことよりも天下国家を論じ、とりわけ沖縄の人々の思いをかみしめ、よりよい日本を創ることで彼らに報いるのだ、と涙を流して語ったものであった。

 戦後、我が国固有の領土であるにもかかわらず、他国の支配を受けていたのが、北方領土と、小笠原諸島、そして奄美諸島から沖縄にかけての島々であった。
 奄美諸島と小笠原諸島は、昭和28年、43年に各々アメリカから返還されたが、北方四島と沖縄は返還されていなかった。
 日本が、原爆投下によって壊滅的打撃を受け、もはや敗戦が決定的となった時、ソ連は突然宣戦布告し、怒濤の如く日本に進撃してきた。日ソ不可侵条約を一方的に破ってである。
 シベリアに40万人もの日本人を抑留させ、北方領土を平然と手中に収めてしまったのである。
 北方四島は未だに返還の兆しも見えない。断じて許されないことである。

 時の総理大臣は佐藤栄作氏で、「沖縄の返還なくして日本の戦後は終らない」と主張し、首相として戦後初めて沖縄訪問も果たした。
 かくて1969年(昭和44年)の佐藤ニクソン共同声明によって沖縄復帰が決まり、その7年後に実現されるのだが、この間、様々な困難な交渉がもたれた。
 佐藤首相の考えの基本は、「核抜き、基地使用は本土並み」とするものであった。

 今、話題になっている、いわゆる核密約問題は、まさにこの時の交渉の背景にある出来事であった。
 当時、米との佐藤首相の密使として秘密交渉に当たったのが、若泉敬元京都産業大学教授(故人)であった。
 すでに彼は、自分の著書で密約について書いていたが、米側にこの文書は無く、日本政府も一貫してこれを否定していた。
 今回公表された2人の首脳のサイン入りの合意議事録は間違いなく本物とみられ、これでその存在が明白となった。

 沖縄返還交渉で、日本は前述のように、「核抜き・本土並み」を主張していたが、米側は極東の安全保障の観点から、万一有事の際を考えて、核再持ち込みの必要性を譲らなかった。
 米ソ対立の冷戦時代だけに、米側の主張は当然のことであったが、日本も国内の状況は、核を否定する世論が圧倒的で、とても容認できることではなかった。
 しかし、これを認めなければ沖縄の返還は不可能となる。そこで、佐藤首相は苦渋の選択として合意文書にサインし、これを密約として双方で世に出さぬことを確認したのであろう。
 米の言う「有事」とは、勿論、戦争等に突入した場合の最悪の事態を指している。極東の安全を考えると、その万一の場合に備えることは当然のことである。
 日本にとっては、まさに国家の存亡が掛かっているときだ。
 核を持たず、専守防衛のみの日本にとって、事前に国を守る唯一の道は、核を持つ米の力、つまり抑止力に頼るしかないのである。
 「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則は国是だが、これを最後まで守って、結局日本の国が滅びたのでは何にもならない。
 この三原則のうち、「持ち込ませず」にはもっと弾力的かつ現実的解釈を検討してもよいのではないか。
 もともと、核搭載船舶や航空機の寄港や立ち寄り時に、いちいち核をいったん外すことなど不可能なことではないか。
 この密約は、結果的に沖縄の返還を実現させ、今日までの日本の平和を考えると、日本を守る核抑止力としての効果があったことになる。
 よし、それが米側の強い要請であったにせよ、あの合意文書は決して誤った選択ではなかったように思えてならない。
 往時の佐藤総理の苦渋の決断こそ、為政者としての責任感のあらわれといえるのではないだろうか。

 ところで、日本の周囲を見渡すと、少なからぬ脅威がヒタヒタと忍び寄ってきているように思える。
 北朝鮮は核実験を二度も実施し、日本を射程に収める弾道ミサイル「ノドン」を200基(いや近年はもっと多いという説もある)配置しているのだ。
 中国は、つい最近(10月1日)建国60周年にあたって、北京で10年ぶりの軍事パレードを盛大に行った。
 この21年、連続して中国は国防費を2ケタに伸ばしてきた。戦略核戦力は大幅に向上し、日本に照準を合わせた核ミサイルも多数配備しているという。一体、どこに日本の安全があるのだろうか。
 鳩山首相は、米軍普天間飛行場移設問題をめぐる優柔不断な対応で、米側に大きな不満を広げさせるばかりだ。
 小沢幹事長は、600人を引き連れて中国訪問を行った。更には外国人の地方参政権の実施まで韓国に行って語っている。
 国家国民の安全を守ることこそ政権の最大の責任なのに、何とも無防備無責任なことではないか。

 不思議なことだが、この秘密文書は、佐藤首相愛用の机の引き出しに保存されていたという。
 自宅に保存していたということは、歴代の首相に引き継がれてはいなかったということか。
 つまり、政府の機密文書として扱われていなかったということなのであろうか。
 官僚の一人は、「公式に引き継がれていない文書に効力は無い」とも言っているようだ。
 佐藤信二氏は、「もはや、この文書によって日本の安全保障体制に大きな影響を与えることはない。歴史の真実を残したい。」と公表の理由を語っている。
 私は、むしろ、この時期に話題になったことを奇貨と考え、みんなで、日本の安全保障問題を、あるいは日米安保の意味を改めて論じていくチャンスにすべきと思っている。
 かつて私は、佐藤栄作先生に可愛がられた時代がある。今は亡き佐藤栄作先生の団十郎のような風貌、お姿を想起し、昔の為政者は、本当に大きく偉大だったとしみじみと思った。
 今の首相のいかに貧弱なことかと、嘆きながら・・・。