言いたい放題 第20号 「ファイナル旅行会」

 私の政治家としての歩みと同じように、長い歴史を重ねて来たのが、深谷骼i後援会旅行会である。
 今年、第47回の旅行は、群馬県のホテル磯部ガーデンで行われたが、これをもって卒業と、私はファイナル旅行会と名付けた。
 選挙に破れたから終わりにしようというのではない。
 何年も前から、どこかでピリオドを打たなければと思っていたのだ。

 かつてピーク時は、5,500人の参加者を集めたことがある。
 私が33歳で、4年間の浪人生活を経て、最高点で東京都議会議員に初当選し、更に国会進出に向け、全力を挙げて活動していた時代である。
 30代、まさに政治家として青春真っ盛りの時代で、都議会にあっては、最高の人気を誇っていた美濃部亮吉都知事を向うにまわし、連日激しく追求の論陣を張っていた。私は美濃部キラーといわれ話題を集めていた。

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 この頃の旅行会は、長い時は12日間も続いた。朝8時になると各々の地元の集合場所に続々と参加者が集って、10台余のバスに乗り込む。
 私はまず1号車に乗って、目的地に着くまで全ての車輌を廻って政治を語り、訴え、あるいは歌って、参加者と親睦を深めた。
 まさに「義経の八艘飛び」の現代版であった。
 ホテルでは、夕刻6時から大宴会となる。私は全参加者と握手を交わし、杯をかたむけ、ようやく8時に終ると、直ちに東京に引き揚げる。翌日も又、同じような行動を続ける為である。
 それでいて格別、苦労も疲労も感じないゴキゲンの毎日だった。「やっぱり若かったから出来たのだとナ」と、今、しみじみ思い返している。

 近年、世の中全体が大きく変わって、旅行といえば個人や家族で楽しむというのが普通となった。集団のバス旅行、特に政治家のそれは極端に少なくなり、東京での国会議員旅行会といえば私ぐらいになっている。
 参加者を募る役員さんも大変だし、ここいらで打ち止めと思いながら、実施すれば1,000名近い方が参加されるので、つい、もう少しと続けて来たのだ。
 今回をファイナルと決めたのは、そんな背景があったからである。

 なにしろ47年という長い年月、よくぞ続いたものだと思うが、その一回一回に、私自身の想い出がつまっている。

 第8回旅行会は、塩原温泉のホテルニュー塩原だったが、この夜の宴会場に東京から電話が入り、長男隆介が誕生したことを知らされた。
 すでに2人の娘が居たが、私にとっては初の男の子、歓喜したものだ。早速、会場で発表すると割れんばかりの拍手で、全員でわがことのように祝ってくれた。
 応援者と喜びを共有したあの光景は、今でも鮮明に瞼に焼き付いている。その倅もすでに38歳、子供1人、一家の父親となっている。光陰矢の如しだ。

 昭和47年12月、私はついに念願の国会議員に当選した。先輩議員が居て公認が得られず、無所属であったが、37歳という若さと勢いで国政の場に躍り出たのであった。
 国会議員になって初の旅行会は翌年の8月で、下田ビューホテルで行われた。
 いよいよ国家社会の為に働く、天下晴れての代議士だ。
 私も高揚したが、その時の宴会会場は、まさに祝賀会そのもので、大変な盛り上がりようであった。
 平成2年には、当選6回目にして郵政大臣になった。海部俊樹内閣の時である。

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 海部総理は、私の早大雄弁会時代、OBとしてよく後輩の弁論の指導に来ていて親しかった。
 民主党の元最高顧問であった渡部恒三代議士も同様である。
 その頃、私は、自民党に学生部を創ろうと奔走し、やがて学生部を誕生させ、私は初代副幹事長になった。丁度、中華民国(台湾)から招きがあって、戦後初の日本人学生の訪台となるのだが、顧問として同行したのも若き日の海部氏であった。縁や出会いとは本当に不思議なものである。

 普通、大臣になると、いわゆる故郷に錦を飾るということで、まず意気揚々とお国入りをする。
 ふるさとの市役所や県庁前には、大勢の人々が集って、日の丸の旗を振って歓迎してくれる。あの頃はそんな風景があって、若い政治家達は、その光景にあこがれ、大臣になることを夢見て一心に政務に励んだものである。
 ところが、私の場合、ふるさとが無い。浅草のはずれ、日本堤から毎日、国会を往復しているのだから、錦を飾って帰るべきふるさとは、元々ないのである。
 この年の旅行会は千葉県のニュー小湊ホテルで行われた。私が秘書官やSPを従えて宴会場に入ると、なんと全員で日の丸の小旗をふって迎えてくれたではないか。
 応援者の優しい心配りに感涙したものである。

 ちなみに、平成7年、自治大臣・国家公安委員長の時は伊東のホテル聚楽、自民党三役総務会長に就いた時はホテルニュー塩原、更に第1回通産大臣では伊香保のホテル天坊を選んだ。

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 いい時ばかりではない。二度目の通産大臣になった時、次の旅行会は飛騨の高山グリーンホテルと決めて、現地の下見を行った。私は万全を期する為、いつも出来る限り自ら下見に出掛けることにしていたのだ。
 ここでは休憩予定の飛騨センターの牧野社長や、早川専務らと知遇を得て、すっかり親しくなった。夜は社長宅に招かれ、土地の人々も集って、三味線太鼓の大騒ぎとなった。
 他の場所でもそうだが、旅先で出会ったこうした人達との交流は今も続いている。
 この翌年、衆議院は解散、総選挙となって、私はまさかの惜敗となった。自民党は全くの不人気で、特に森喜朗総理の発言が度々問題になり、その度に票を減らしたとマスコミは伝えた。
 大臣と浪人では天国と地獄の隔たりがあるが、かといって旅行会を中止する訳にもいかず、結局、第38回旅行会は無冠のまま、予定通り飛騨高山で実施された。
 ここは飛騨牛でも有名なので、たまたま一緒に参加していた深谷一家、揃って「キッチン飛騨」で会食することにした。いつも行列の出来る評判の店である。
 全く知らない店なのだが、丁重に迎えられ、途中現れた店主は開口一番、「深谷骼iを落とすなんて、森が悪い」とぶっきらぼうに言い放った。森総理は、早大時代の雄弁会同期の桜で、決して憎めない人であったが・・・。
 ここのご主人河本敏明氏は、かなり政治に詳しく、私のこともよく知っていた。落選をわがことのように口惜しがって、私の再起を力強く願ってくれた。珍しく意気消沈していた私にとっては、決して大げさでなく、地獄に仏であった。
 この店のカレーはつとに有名で、カレー大好き人間の私に今でも折々、届けてくれている。

 5年の空白の時を経て、ようやく国会に返り咲いたのは平成17年、直ちに在職25年の表彰を受けた。又、国家基本政策委員長に就任し、晴れて迎えた旅行会は芦ノ牧の大川荘であった。
 次の年は鬼怒川のホテルニュー岡部であったが、その道中の昼食会場に、突然、時の幹事長麻生太郎氏から電話が掛かって来た。
 「日本の国際貢献として、インド洋の給油活動を再開させたいが、先輩に是非、テロ対策特別委員長になって欲しい」という。
 大島国対委員長も、「この重要法案を通せる人は深谷先輩以外にはいない。余人をもって代え難い」と言っている。なんとか引き受けていただきたいと、例の特徴のあるダミ声での強い要請であった。
 勿論、一も二もなく快諾したが、以来、安倍内閣、福田内閣、麻生内閣と、実に三度、私はこの職に就き続けた。
 その上、ソマリア沖の海賊対策も含め、種々の法案を私の手でことごとく仕上げた。
 再起以来、この4年間は私にとって極めて順調で充実した日々であった。
 エネルギー戦略合同部会長として、2つの調査会、13の部会を率いて、日本のエネルギー戦略の基礎をつくりあげた。予算委員会では、折から米国発の金融危機を乗り越えるための様々な政策を打ち立てた。更に私が塾長をつとめるTOKYO自民党政経塾では、常に定員オーバーの大盛況で、私は塾生を懸命に教えて来た。地元対策も、ほとんど具体的成果をあげていた。
 ただ、自民党全体をみると、残念ながら不祥事のオンパレードである。
 一年ごとに総理が交代する、マスコミを中心に「無責任」との批判の声がゴウゴウと湧き起こった。
 おまけに政治資金をめぐり大臣の自殺事件、あるいは酔っぱらい会見、バンソウコウ大臣・・・。まったく目をおおいたくなることばかりであった。
 麻生総理は漢字をよく間違える、マンガ大好きもひたすら顰蹙を買った。自民党支持率は一気に下降していったのである。

 総選挙の結果、実に3分の1近くも自民党議員は激減し、未曾有の大敗北となってしまった。
 東京の自民党衆議院議員は24名であったが、直接選挙で勝ったのはたった4名、私も10万票近く集めながらの敗北となってしまった。

 こうした状況の中で催されたのが、今回のファイナル旅行会であった。
 しかし、私が逆境にあっても後援者は変わらなかった。11月27日から3日間、磯部ガーデンホテルには、800名を超える人々が参加してくれた。
 夜の宴会では「これは祝勝会ですか」と戸惑うほど、明るく楽しい雰囲気であふれていた。
 「旅行会を続けて欲しい」、「毎年楽しみにしている」と、次々と声があがり、司会者が「来年も続けよう」と提案し、ついに満場一致で大拍手となった。私にとって、涙の出るほどの喜びであった。
 「新しい形にして、来年から再出発」、これがファイナル旅行と銘打った今回の結論であった。
 宴会の最後、いつものように乞われて私は舞台に立った。
 今年は少し趣をかえて、「千の風になって」と「愛燦燦」の2曲を、深谷流解説を加えて歌うことにした。
 「千の風になって」は、80年以上前から、アメリカで語り継がれた亡き母を思う詩であるという。
 9.11の多発テロ、その1年後の追悼式で、父親を失った11歳の少女が朗読して世界中の話題になった。
 日本では、坂本九の葬儀委員長の永六輔氏が葬式で朗読している。なんでもデーブスペクター氏紹介とか。
 近年、新井満氏の訳詩と曲で大ヒットしたが、私の大好きな歌である。
 2007年2月、衆議院予算委員会で質問に立った時、私は時の安倍総理にこの一節を読んで、テレビでも中継された。
 「朝は鳥になってあなたを目覚めさせ、夜は星になってあなたを見守る」、今は亡き厳父、安倍晋太郎氏は、泉下で貴方に期待し、見守っている。立派な宰相になって欲しい」と語りかけたのだ。しかし・・・。
 「愛燦燦」は、美空ひばりや小椋桂が歌っている。その中の歌詞の一節が、今の私の心境にぴったりなのだ。
 「わずかばかりの運の悪さを恨んだりして・・・」
 「思い通りにならない夢を失くしたりして」
 そして、三番で、多くの愛を受けて「心秘かに嬉し涙を流したりして」とうたっている。
 人は哀しいもの、かよわいもの、そして「人生は不思議なもの、嬉しいものですね」と結んでいる。
 特に、私は三番が好きなのである。

 いくらアンコールがあっても、2曲以上歌うべきでないことは心得ている。しかし、千秋楽の最終日、これは絶対歌えとの御指名で、会場全員の手拍子で「男なら」を蛮声を張り上げて歌った。
 いつも旅行会で、毎回、この歌を一曲だけ歌うのが常であった。
 「男なら男なら、かけた勝負にくよくよするな。水は流れる地球は回る。明日という日が待っている。男ならやってみな」
 これは、私が衆議院2期目に破れた時、今は亡き女房の父親がつくってくれた歌である。その年から数えて33年、又、この歌をうたっている自分が少し無念であった。
 「男なら、人の情けに涙を流せ、まして大事な日本の為にや、杖になりましょ柱にも、男ならやってみな」
 何年たっても、この私の心意気は、いささかも衰えてはいない・・・。