自分が年齢を重ねてくると、同年代の人達がどう行動しているのかが気になってくる。
 すっかり会社からリタイアして、まるで社会からもリタイアしたような無気力な老人も居る。
 一方、全く年に関わりなく、悠々と第一線で活躍している人も居て、その姿を見るのは、大いに私自身の励みになる。
 芦田淳さんは、世界的なデザイナーとしてつとに名の知られる存在である。
 もう長いおつきあいになるが、昭和5年生まれで、今、79歳になる。
 娘さんの多恵さんも、「ミス・アシダ」という若手デザイナーとして、今、最も注目される存在だ。御本人は否定するが、彼女への対抗心が時々窺えるような気がする。制作意欲は少しも衰えていないのである。
 松田博青氏は、杏林大学の理事長だが、私の一年先輩にあたる。
 一見おだやかな医学者だが、あの大学病院を今日のように見事に大きく近代的に変えた力量はただ者ではない。静かな語り口の中に、いつもなみなみならぬ闘志があって、私を刺激する。
 そんな同世代の人達の中で、ユニークな存在が、間もなく80歳になる今村讃氏だ。
 本職は塗装屋さんなのだが、ハワイアンギターの名手で、「コロヘ今村&レイキングス」というバンドを組んで長年演奏会を開いて来た。
 11月23日に、横浜関内大ホールで第12回の演奏会が開かれた。今年はハワイアンアンドジャズスイングの集いとなっていて、私も招かれて出掛けたが、これで3回目になる。
 冬にハワイアンとは、なんとも季節感のない話だが、常夏のハワイを思えば、どうということは無いのかも知れぬ。
 大会場の舞台で、小さい身体を活発に動かして見事なウクレレを聴かせてくれる。突然、若い子とジルバまで踊り出す。往年の不良青春時代の名残りと御本人の弁だ。
 いつの間にか、演奏をバックミュージックにして私も自分の青春時代を回想していた。

 そもそも私が今村さんと最初に会ったのは、銀座ライオンというビアホールである。
 私の古い馴染みの音楽家に、花岡詠二というクラリネットの名手がいるが、彼の演奏会の席で声をかけられたのがきっかけである。
 意外に思う人が多いが、近年、ジャズやスイングが流行っていて、どのコンサートの会場に行っても満員盛況である。
 しかも、圧倒的に多い客層が、私と同じ昭和世代の人達である。みんな手や身体を小刻みに動かし、足でリズムをとり、夢心地といった按配である。
 70代以上とみられる、本来なら充分なお年寄りなのだが、ほとんどの人が肌艶もよく、なによりも背筋をのばして姿勢がよい。
 お互いに遠いよき青春時代を思い浮かべて、身も心も若々しくなっているに違いないのだ。
 
 戦後、日本でのジャズが本格的にスタートしたのは、昭和28年、「ビッグフォア」というグループが結成された時で、日劇での旗揚げ公演は幾重もの行列が劇場を取り囲んだという。
 ピアノ中村八大、ベース小野満、テナーサックス松本英彦、ドラムジョージ川口となつかしい名が並ぶ。
 6年前、ジョージ川口さんは、私が毎年帝国ホテルで開く内輪の誕生会に駆けつけて、ドラムをたたいてくれた。
 全く衰えも見せず、往年の姿のままで見事なスティックさばきであった。
 人生とははかないもので、それから間もなく2003年11月に他界されてしまった。私より8歳上、その時はまだ75歳であった。最後の想い出を私に残してくれたのであった。
 ジャズが日本に入ってきたのは大正時代だが、第2次世界大戦が始まると、敵国の音楽はけしからんと禁止になってしまった。
 終戦と共に、復活するのだが、それは日本国内の米軍基地からのスタートであった。
 だから、私にとってはジャズは米軍からのもの、よくいえば平和の訪れを告げる音楽というイメージである。

 私が早稲田大学に通っていた頃は、まさに貧乏学生の見本みたいであったから、喫茶店に入ることも知らず、学生仲間で当時流行っていた麻雀にも加わったことがない。
 唯一の例外は、少しばかり社交ダンスをかじったことだ。
 当時、私は全学連に対抗して保守的な学生組織をつくって大運動を展開していた。
 その仲間に、大学のダンスクラブに所属していたメンバーが居たからである。
 誘われてダンスホールに出掛けたこともあった。
 飯田橋近くにあったホールでは、チャーリー石黒と東京パンチョスというグループがいて、ジャズやラテンの演奏をしていた。
 私がジャズと本格的に出会ったのは、その頃のことである。
 私が国会議員に初当選したのは昭和47年(1972年)だが、当時、大いに売り出していたのが薗田憲一とデキシーキングスで、何度か呼ばれて演奏会にも顔を出した。
 ある会場で、偶然、立川談志師匠と顔を合わせたことがある。
 前年、参議院議員に当選したばかりの談志はジャズが大好きで、色々なバンドを応援していた。会場で私とすっかり盛り上がり、意気投合して、ついには二人で籠を持って、演奏者に渡すチップを集める為に会場を廻り出した。二人の国会議員の即席募金活動は大受けであった。
 彼は後に沖縄開発政務次官になったが、わずか36日目での辞任となった。最短距離である。
 初仕事で沖縄海洋博覧会に視察に行ったのだが、二日酔いのまま記者会見したのがいけなかった。
 「公務と酒とどっちが大切なんだ」と地元記者に詰問されて、「酒に決まってんだろう」と答えた。大問題となるのは当然だ。
 昔も今も、酒を飲んでの記者会見はアウトなのである。
 落語家としては右に出る者が居ない大御所となった談志師匠、近年すっかり身体を壊して、かつての勢いはない。
 ジャズ大好きの私より一つ下の73歳、長生きして欲しいといつも念じている。

 薗田憲一はすでに亡くなり、息子がバンドを継いでいる。
 今は独自の活動を続けているが、クラリネット最高の奏者、花岡詠二は、このメンバーの一人であった。
 
 今村讃氏のハワイアンとスイングの大会は1,000人をこえる人で大盛況であった。
 青春時代のあれこれを心の中で追いながら、3時間という長い時間はあっという間に過ぎていった。
 「なあに、まだまだこれからだよ」、劇場から、寒々とした街にくり出す昔の青年達、襟をしっかりと立て、そう、あの頃のように胸を張って散っていったのである。