私は今まで、140組を超える仲人を勤めている。一番多かったのは、都議会議員時代だが、近年は、ほとんどお断りして来た。理由は、日程がなかなか調整出来ないことと、なによりも私ら夫婦も高齢化して、長い時間を費やすことがシンドクなっているからである。
 もっとも、世の中も随分変わって来ていて、今や、仲人というやっかいな者を立てずに、本人同士が、自分でプランを立てて自主的に行う披露宴も増えて来ている。
 今回のお相手は、手塚雄介君と、旧姓金子冬芽さんだが、これには意味もあって、久しぶりに喜んでお引き受けしたのである。

 新郎の家は、浅草雷門の人形焼の「紀文堂総本店」で、明治23年創業だから、来年で実に120年の歴史を重ねて来た老舗である。
 手塚家とは、本当に古いおつきあいになる。
 政治の世界に身を置いていると、一生懸命世話をして来た相手に、平気で裏切られるという場合もある。私の場合、比較的、こんな人は少なかったが・・・。
 手塚家の場合、近所から出馬している人も居ただけに、様々な町のしがらみもあって、随分、苦労も多かったのではないか。
 そんな中、私の良き時も悪しき時も、一貫して変わらず応援し続けてくれた。本当にありがたいことで、まさに家族ぐるみのお付き合いを重ねて来た。
 最初の出会いは、浅草にあるステーキ屋「すきずき」で、その時、雄介君は、まだ生まれて三月目の可愛い赤ちゃんであった。
 あれから何年経ったのかと数えるより、雄介君の年齢を数える方が早い、そう31年になる。

 父親の手塚進也さんが、自転車の前籠に雄介君を乗せて、毎日選挙事務所に通ってくれたこともあった。
 後援会旅行会で、私の倅と並んで雄介君がお辞儀をしている様子に、みなさんから、「お子さんですネ」と言われたことなど、私の記憶の中に鮮明に残っている。
 
 その頃、私の自慢は満州仕込みのスケートであったが、手塚家が毎年スキーに行くことから、苗場のスキー場に以来何年も一緒に出掛けた。
 今や、スキーは、私の得意のスポーツとなっている。30度の急斜面も激しいギャップも、ものともせず、85キロの巨体で、脱兎(?)の如く滑り降りる勇姿は、見ている人々(家族だけだが)をうならせる。
 もっとも、おかげで選挙でも滑りやすくなったと自嘲したりして・・・。

 そんな彼が、いつの間にか(本当にそう思う)立派に成長し、慶應大学を卒業した後に、五代目として店を支え、いよいよ結婚となったのである。
 その上、彼の子供の頃からの夢が、私に仲人をやってもらうということだったと聞いて一層嬉しく、女房共々、二つ返事で引き受けたのであった。

 1950年代、話題になった米映画に、スペンサー・トレイシー主演の「花嫁の父」というのがあった。
 娘を嫁に出す父親の喜びや寂しさが見事に描き出された映画で、花嫁姿のエリザベス・テイラーの美しい姿と共に、今でも私の心に深い印象を残している。
 リッツ・カールトンホテルのチャペル、バージンロードを花嫁になる冬芽さんと腕を組んで、父親の金子俊昌さんが入場する。
 今にも泣き出しそうな緊張した顔、迎える母親はしきりにハンカチで目をぬぐっている。
 まさに、あの映画の名場面であった。
 金子俊昌氏は、荻窪で開業する循環器内科の権威である。
 関東逓信病院の副部長もされたが、逓信病院は旧郵政省所管で、私が郵政大臣時代、膝の簡単な手術をしたこともある。縁とは不思議なものである。
 良き家庭で育ったお嬢さん、下町の雄介君とはまさに似合いの新郎新婦であった。

 私の二人へのはなむけの言葉は、次のような歌ともつかない文言であった。
 「誰かが、どこかで、私達を見つめている
  誰かが、どこかで、私達を支えている
  そこに、私達の人生がある」
 私が早稲田大学生の頃、よく仲間と遊説隊を組み全国行脚をしたのだが、最も想い出に残っているのが宮崎県での遊説である。
 その宮崎で、市会議員をしていた戸高保氏という人に出会った。彼は私の演説をいたく気に入り、連日、遊説隊と行動を共にしてくれた。
 私より16歳上で、南国にふさわしく真っ黒な顔で容貌魁偉、しかし、人を思う優しさにあふれた人であった。
 地域で人望も厚く、後に県会議員にトップ当選したが、九州の徳川夢声と呼ばれる雄弁家でもあった。
 遊説日程が終って、いよいよ東京へ戻ろうとすると、もう少し居てくれと引き留めて、十名全員を自分の経営する旅館「待月」に無料で宿泊させてくれた。
 当時は、全学連の左翼運動が盛んな時代で、われわれの遊説のテーマは「学生よ学園に返れ」であった。
 九州の全学連の最大の拠点は宮崎大学であった。われわれは、わら半紙に「学生よ学園に返れ」と大書きした大量のポスターをつくり、帰京前夜、宮崎大学の壁を乗り越えて、大学のいたるところに張り巡らせた。
 翌日、大騒動になったが、われわれは既に汽車の中、戸高さんは必死に対応し、冷や汗をかいたとは後の話であった。

 私が27歳で初めて台東区議会議員に出馬した時も、はるばる宮崎から上京し、見事な雄弁をもって応援してくれた。
 以来、私の選挙になると必ず上京し、私も彼の選挙の時は、宮崎に飛んで熱弁をふるった。
 都議会から国会に移る頃、浅草にあった国際劇場で、2回にわたる、「深谷隆司一万人の集い」が恒例になっていた。
 昭和51年、その国際劇場で戸高氏も挨拶に立ったが、なんとその夜、宿泊した新橋第一ホテルで急逝してしまったのである。
 深夜、ハンドルを握り、車で私はホテルに急行したが、涙がとめどなく流れて号泣した。戸高氏との永遠の別れであった。
 「誰かがどこかで・・・」、この言葉を私に残してくれた人、それが戸高保氏であった。

 久しぶりの仲人、私にとっても女房にとっても、様々な感慨を与えた結婚式という名の劇場であった。
 仲人席で、私はメニューに一筆書いて女房にそっと渡した。
 「もう子供を送り出すことはないが、あとはお互い、病気をせずに長生きすることだけが全てだ」と。