言いたい放題 第10号 「京都、良し悪し」 

 昔、若い頃、女房は大阪に住んでいて、よく京都へ出掛けたという。その故か、ひたすら京都大好き人間で、「そうだ 京都、行こう!」と誘ったときが一番御機嫌で、まず断ったことがない。

 選挙後相変らず忙しく過ぎたが、ここいらで京都へ行こうとなって、珍しく公務抜きの3泊4日の旅に出た。
 紅葉にはほんの少し早くて残念ではあったが、「哲学の道」の散策など、さすが京都のおだやかな風情は、心を癒してくれる。

 定宿だったロイヤルホテルは、転々と経営者が変わり、今は外資系となっているが、相変わらずあらゆる点で二流で、いつも、もう今回限りにしようと思うのだが、この度の感想も同じであった。
 かつて、このホテルで女房の貴重品盗難事件があった。ホテル側の対応はのらりくらりで、全く誠意がない。その上、私の場合、体面を考える立場なので、このときも文句だけ言って、我慢したのである。
 又、私が要職に就いた時、支配人から部屋に祝い花が届けられ、珍しいこともあると喜んだら、名札の裏側には、他人の名が書かれていた。なんのことはない、どこかの吉兆ではないが、他の客からの盥回し(たらいまわし)の花であった。
 勿論支配人が飛んできて、平謝りではあったが、その時、名札を外して後ろ手に秘す早さの、あざやかなことといったらなかった。
 但し、これらの事件は今の会社経営の時ではないが・・・。

 そんな訳で2日目から京都オークラへと移動した。ここは、さすが一流という落ち着きがあって、ほっとした。

 京都では、もっぱら女房の先導で、各名刹(めいさつ)を訪れたが、丁度、非公開文化財特別公開の時期とあって、今まで、あまり立ち寄れなかった場所も廻ることが出来た。
 京都駅からも近い、泉涌寺(せんにゅうじ)は、JRの広告、「そうだ 京都、行こう。」のポスターで、秋と冬の大門から見る美しい仏殿が話題になり、近年大きな人気を集めている。
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 1219年、この地に大伽藍を営む折、寺地の一角から清泉が湧き出たことからこの名になったという。皇室の菩提寺としても知られている。
 入ってすぐ左手に楊貴妃観音像があった。その像容の美しさは、さすが唐の玄宗皇帝の妃として知られるだけあってすばらしい。
 色々な御札を売っているが、女房は三人の孫娘達の為に「美しくなる守り札」を買い求めていた。
 楊貴妃は、あまりの美しさ故に、不幸な運命をたどるのだが、ふと、3人の孫を思い、「ほどほどの美しさに」と念じ直した。もっとも私と女房のDNAだから、そんなに心配することはないが・・・・・・。

 大門も仏殿も、この楊貴妃観音像も、全て国の重要文化財なのだから豪華なものである。

 京都最古の禅寺建仁寺(けんにんじ)は、有名な一力亭の横から入った、花見小路通りの石畳を少し歩いた突き当たりに在る。
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 国宝「風神雷神図屏風」は、俵屋宗達の晩年の最高傑作として世に知られているが、ここに置かれているのはデジタル複製で、見事ではあるが私にはあまり興味はない。
 実は、この法堂(はっとう)の天井に描かれている「双龍の図」を見たいというのが本音であった。
 この絵は、非常に新しく、平成14年、寺の建造800年を記念して、北海道に住む小泉淳作画伯の筆による龍である。
 制作中の様子がテレビで映し出されていたが、小泉画伯の精根尽した姿が印象的であった。おそらく後世一層の価値をもって、多くの観光客に仰ぎ見守られていくことであろう。
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 ここには、他に桃山時代に海北友松(かいほうゆうしょう)によって描かれた、重要文化財の方丈襖絵「雲龍図」もあるが、残念ながらこれも複製されたものであった。

 今回、是非共、建仁寺の双龍を見なければと私が強く思ったことには、不愉快な理由があった。
 妙心寺を訪ねたときのことである。
 このお寺は1337年、花園法王が自ら無想大師(関山慧玄)を開山として迎え創建したものだ。しかし、足利義満の圧迫や応仁の乱での中絶など波乱の歴史がある。
 やがて細川勝元の支援を受け、武士層が帰依し隆盛を極めた。今も広大な土地を有し46もの塔頭寺院(たっちゅうじいん)があって、日本最大の禅寺として世に知られている。
 なかでも法堂天井にある雲龍図はあまりにも有名である。どこから見ても龍の目が自分に向けられているようで、八方にらみの龍とも呼ばれている。
 龍に格別な思いを持っている私は、何度も訪ねているが、ドライバーの紹介で、今回は、南総門から入って、まず手前の退蔵院から見学することにした。
 そこから法堂まで、山門、仏殿と通って行ったのだ。今回はいつもと逆の道順である。法堂の入口で、ここだなと木造扉を開けた。中にすでに何十人かの観光客が居てマイクの説明を聴いている。
 入口から薄暗い堂内をのぞき込むようにして一歩入ると、突然、藍色の作務衣を着た女が、「ここから入っては困ります」と大声をあげるではないか。
「入場券を買って下さい!」、「どこで売っているの」、「そんなことは向うで聞いて下さい」。
 なんたる失礼な態度か、思わず顔を見ると寺門に仕えるには全く相応しくない、赤く口紅を塗った中年女性であった。
 私の顔も見ずに、押しのけるようにしてその大扉を閉めるのだ。
「無礼者!」と怒鳴る間もない早業(はやわざ)で、さすがの私も茫然自失の体であった。
 拝観受付は、更にその前方に進んで寝堂、玄関にあるらしいが、そこまで行って引き返す気も失せて「もう二度と来るか!」と、怒り心頭だった。
 無料(ただ)で観ようとしているとでも思ったのか、誰が数百円程度のお金をケチるものか。なによりもはるばる来てくれた観光客に対する態度ではない。
 見る側からすれば、にらみ龍はここにしかないという弱みがある、あの女からすれば見せてやるといった思いなのかもしれぬ。
 今まで京都へ度々来て、ここまで不愉快な経験をしたことはない。

 そこで・・・、縁起直しの為に建仁寺の「双龍」へ、となった次第なのである。

 車中、そのことを言うと、京都のドライバーさん、「あのおばはんは、みんなから評判悪いといわれているのですよ」と言うではないか。有名人なのだ。
 「近頃、修学旅行など団体客が多く、その方がまとまってお金も入るから、全体的にお寺さんは「歓迎団体はん」で、個人客への対応が冷たいんですよ。ようこそ京都へ、と喜んでお迎えする私達から見れば迷惑千万で、こんなことをしていると京都の評判がすたれ、やがては客が来なくなります」。
 私への同情より、怒りが先のドライバーさんの話。少しは溜飲が下がる思いであった。

 東山七条の真言宗智積院(ちしゃくいん)は、国宝障壁画で有名だが、何度かの災禍で原型の4分の1しか残っていない。
 作者長谷川等伯は、26歳の長子久藏(桜図の作者)の急逝の後、この子を思い、人生の全てをかけて楓図を描き出したが、まさに絢爛豪華なものであった。
 この智積院の襖絵の中で、私が一番気に入って、しばらく足を止めて動かなかったのは、逆に田渕俊夫氏の現代の作品であった。
 平成20年、彼は精魂込めて描き、智積院講堂にこれを奉納した。
 彼は平山郁男氏に師事した東京芸大の副学長で、何度も院展に入選している。
 5年の歳月をかけ、実に60面に及ぶふすま絵を描いた。私が見た「不二の間」、「金剛の間」、「胎蔵の間」はいずれも墨一色で、彼の解説文もあった。
 「胎蔵の間」は母の優しさを描いたという。厳しい冬が終って優しいぬくもりの春にふさわしく、新芽を吹き出す柳と満開の桜が見事に描き出されている。
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 作者自身が言うように、墨一色で絵具は全く使っていないのに、「不思議なことに描いた本人の私にも、淡い桜の色が見えるようになってきました。」なのである。
 私も絵が好きで、二科展10回入選を自慢げに語るが、この作品を見ると、あまりの見事さに、いかにも自分の才能の無さがわかって恥ずかしかった。
 こんな幻想的な素晴らしい絵を墨一色で描けたら・・・、としみじみ思うのであった。

 何度行っても詩仙堂の庭がいい。建造部は寛政年間、多少の変更をみたが、全体像は変わっていない。静かに座して庭園を見つめていると、はるか往事をそのまま偲ぶことが出来るような気がする。
 石川家は代々徳川譜代の臣であり、丈山も家康公に仕え大坂夏の陣で功名を立てた。後に文人として清貧の中で聖賢の教えを学び生涯楽しんだ。
 独身のまま90歳の天寿を全うし、悠々とこの世を去ったという。

 朝の鴨川散歩も含めて、1日中寺社巡りで、なんと1万3千歩も万歩計が記録している。
 いつも疲れたと嘆く女房も、私の半分は歩いたはずなのに、相変わらず御機嫌、意気軒昂である。
 京都は、何度訪れてもよき古き町で、心にやすらぎを与えてくれるのだ。
 全体的に見て、観光客の比較的少ない神社仏閣ほど、当然ながら静かで京都らしい。なによりも対応の仕方が親切で心がこもっているように感ずる。
 建仁寺も、詩仙堂でも、受付の人が優しく、「ありがとうございました」「お気を付けて下さい」と声を掛けてくれた。
 本来、当たり前のことなのだが、この当たり前が少しずつ失われていくように思えてならない。

 「妙心寺なんかもう行くもんか!」もう一度心の中でつぶやいている私だった。