過日、今度自民党総務会長に就任した田野瀬良太郎代議士が、拙宅を訪れた。
 先輩総務会長の私に教えを乞いたいということであった。

 私は平成10年、小渕政権誕生と共に、初の総務会長になった。時の幹事長が森喜朗氏、政調会長が池田行彦氏である。
 余談だが池田氏は平成16年1月28日、大腸がんで早逝したが、丁度、その日が、なんと私が同じ病の大腸がんの手術に成功した日であった。
 彼の場合、当選を重ね、公務に追われ続け、病気発見が遅れたのである。
 私は選挙に破れた直後、丁度、時間に余裕が出来たので、かねてからあったポリープを除去しようと杏林大学病院で検査を受けた。その時、がんを発見してくれたのである。念のために医師に聞くと、「もし発見が遅れていたら、まず6ヶ月の生命でしょうな」ということであった。
 運、不運は、まさに紙一重で、天は私を救う為に選挙に落選させたのかとさえ思った。そんなことはないか・・。


 自民党総務会は、党大会に匹敵する権威あるもので、与党時代、全ての法案提出は、政調審査会を経てここで最終決定を行うことになっていた。
 その上、他のことも含めて、全ての決定は満場一致でなければならないことを原則としている。
 勿論、大きく対立して、まとまらない時もある。
 例えば、日中国交正常化の時がそうだった。二つの中国は認められないということで、日本は中華民国(台湾)との国交を絶たねばならない事態になった。ところが、「第二次大戦に敗れた時、あれだけ日本に理解を示し、支えてくれた蒋介石総統の台湾、その恩情を忘れたのか」と、青嵐会のメンバーを中心に大反対となった。総務会は混乱が続き、誰もこの解決は不可能と思ったものだが、日中国交正常化は国是だからと、最後は満場一致の決定となった。
 なんのことはない、反対メンバーが全員廊下に退出し、結果的に満場一致の形をとったのである。いわば大人の知恵であった。

 売上税で大荒れの時、私は総務の一員で、当時の西岡武夫総務会長(現民主党参議院運営委員長)に対し、「断固反対、総務会で決定させない」と大熱弁をふるった。
 私に同調して反対論をぶったのが若き日の小泉純一郎氏である。
 二人は一切の妥協を許さず、交互に演説を続け、延々三時間に及び、ついに西岡会長がたまらず逃げ出すという一幕となった。
 時の竹下登幹事長は私を呼んで、早稲田雄弁会の後輩の私に、「お前はなんとも頑固な奴だわな」と舌を巻いて、この案を撤回したのである。
 やがてようやく国民の理解も得られたと、消費税と名も変えて導入が決まったのは、2年後の昭和63年のことであった。大平正芳総理の時代に消費税問題が浮上して、実に10年後のことである。
 時間をかけて丁寧に国民の理解を求めることがいかに大切か、しみじみと感じたのは、この時のことであった。


 田野瀬新総務会長曰く、「どうも、その総務会の権威が薄くなりそうなのです」
 自民党は野党になって、もはや、法律案を提出する立場にはない。法案を決定する権限の無い時代、総務会そのものが必要ではないという声まで、マスコミで散見するようになっているのだ。
 かつて総務会のメンバーは、圧倒的に大臣経験者が占め、勿論、会長は大臣経験者であった。田野瀬氏はまだ大臣を経験していない。
 なにもかも、初めてのケースばかりである。
 私は声を強めて言った。
「これからは野党に徹して、闘う自民党にならなければいけない。国家国民の為に、与党の誤りを糺すことは野党の責任、逆にいえば特権だ。与党の提出する法律案について事前に論議を重ね、必要な時は、役人を呼びつける。民主党の役人排除の論理でいけば、大臣や副大臣を呼んで、総務会で直接質すことだってひとつの案だ。
今が、逆に総務会の存在を確固たるものにする最高のチャンスではないか」と力説した。

 田野瀬良太郎総務会長は欣然として帰られたが、なんと車に乗ったのは彼一人ではないか。
 野党になると、党三役総務会長といえどもSPもつかない、住居に交番も建たないのである。ちなみに、今回、党三役でSPが付いているのは幹事長だけ、政調会長にも警備はつかない。
 野党の立場になると、なんだか軽く扱われているようで侘しい。本当に厳しいのはこれからだと改めて思った。
 後日、田野瀬総務会長は、TOKYO自民党政経塾の箱根湯本合宿に参加してくれた。若い頃、世界一周したことなど面白い話を聞かせ、市議会議員を経て県会議員、やがて国会議員になった経過を塾生に率直に語った。落選も経験し、這い上がってきた彼には根性がある。

 頑張れ、総務会長!負けるな自民党、と心から祈らずにはいられなかった。