第979回「米寿 新しい時代へ」
深谷隆司の言いたい放題第979回
「米寿 新しい時代へ」
9月29日、ホテルニューオータニ鳳凰の間での米寿の集いに180人の方が集まってくれた。茂木自民党幹事長も駆けつけてくれ、岸田総理からもお花が届いた。
こんな多くの人に来ていただく私の会もこれが最終だなと女房と話していた。
だから深谷ショーで手品からピアノ弾き語り、ついには孫隆仁とタップダンスまで披露した。さすがに疲れ切って皆さんを送り出すとき、途中で思わず椅子に座らせてもらった。
88歳、随分馬齢を重ねたが少しも変わらず元気だとアピールしていたが、一つ動くたびに疲れが出て、寄る年波には勝てないとつくづく思った。家内も同じで、すっかり疲れがたまってダウン、私の行事に出られない初めてのケースとなった。それから3日目、ようやく正常な状態に戻って又元気に活動を始めている。
自民党政経塾、温故知新塾の塾長として「語り部」に徹し、大学はじめ各種の講演で熱弁をふるい、選挙ともなれば連日後輩候補者たちの為に獅子吼するつもりである。その為にもこれからは一層自重し、健康も考えて過ごさなければと思っている。
いずれにしても88歳になっての日々が始まった。私にとっては新しい時代が始まった、といった実感である。
第978回「人生いろいろ」
深谷隆司の言いたい放題第978回
「人生いろいろ」
友人の森茂雄氏が逝って、9月18日、寛永寺で行われた葬儀で私は弔辞を読んだ。
95歳で永眠した彼は150年も続く老舗初音鮨本店の5代目店主である。私とは7歳も違うが、お互い20代の頃、青年会で活動した。彼も私も政治家志望で、言い換えれば寿司屋の倅と靴屋の倅が大きな夢に燃えていたのである。
ある時、総理大臣杯争奪弁論大会が開かれ、共に参加したが私が優勝した。それで彼は政治家を断念し寿司業で天下を取ろうと決意した。
やがて東京鮨組合の会長や全国すし連合会の会長になって活躍し、この世界で不動の立場となった。
寿司文化の普及に全力を尽くし、毎年米国ワシントンDCで開催される全米桜祭りには組合員を引率して渡米し、ポトマック川周辺に屋台を開き、大統領夫人はじめ全米政財界の要人らに寿司をふるまった。この催しは今も続いている。
しかも政治への関心は変わらず、組織を挙げて自民党を応援し、私へも限りない支援を続けてくれた。おかげで私は区議、都議を経て国会議員を9期務め、郵政大臣、自治大臣、通産大臣など5つの大臣になり、衆議院では予算委員長、自民党では三役総務会長などを歴任し、人生かけてお国のために尽くすことが出来たのである。
ある時、彼の店で飲んでいると1冊の帳面を取り出した。最初に自分が亡くなった時にどう知らせるかの一覧表があり、次のページの最後に葬儀委員長深谷隆司と書いてあった。
葬儀では葬儀委員長は置かず、私1人が弔辞を読むことになったのだが、彼の願いに少しでも応えられたかと思っている。
彼は趣味多才でゴルフなどスポーツ万能、日本舞踊から小唄までこなし、NHKのど自慢に夫婦で出演し優勝している。
その最愛の妻を8年前に亡くしたが、今頃、あの世とやらで再会し、優雅に過ごしているのではないか・・・。
私は相変わらず多忙な日々を過ごしているが、9月29日には米寿、88歳になる。月刊誌「Hanada」の私の連載欄でこれまでの人生を語った。
主幹の花田さんから直接連絡が入って、新聞広告欄で大きく取り上げますと言ってくれた。編集者の沼尻さんは褒め上手で、私の連載は毎回大人気と言ってくれる。褒められたらブタも木に登る・・・? 張り切ってこれからも熱っぽい紙面を作ろうと思っている。
人生いろいろ、私は元気一杯、まだまだ働けると自負している。
第977回「引き揚げ体験を語る」
深谷隆司の言いたい放題第977回
「引き揚げ体験を語る」
9月11日6時から三田にある弘法寺で「引き揚げ体験を語る」というテーマで1時間余り講演を行った。ここは義理の息子小田全宏が管長を務めるお寺で、娘恵理も坊さんになって務めている。150人ほどの人が集まって盛況であった。
私は、満州電業に勤める父のもと6歳の頃から満州ハルピンで生活した。ハルピンは「白鳥」を意味する満州語で、旧帝政ロシアが19世紀から20世紀初頭にかけて造った大都市である。日露戦争で勝利した日本は領事館を設置、日本人も合法的に住める開放地の一つとなった。
ハルピンは交通の要衝で東洋の風土と西欧の文化が混然一体と融合し東洋のパリと言われた素敵なところであった。夏はスンガリー(松花江)で泳ぎ冬はスケートを楽しみ、幸せな日々であった。
1945年、大東亜戦争で日本がまさに破れるという時、突如ソ連が宣戦布告し、兵員157万人余、火砲、迫撃砲、戦車、更に3千機以上の飛行機をもって満州、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻した。そして約65万人の日本人をシベリアに送り、そのうち6万人が死亡した。日ソ不可侵条約を破り、国際法を踏みにじったソ連の暴挙であった。
戦車40台を先頭にハルピンに押し寄せてきたのは8月22日であった。彼らは小銃をかざし「ダバイ、ダバイ」と叫び土足で我々の家に侵入しあらゆるものを奪っていった。男はシベリアに、女性には暴行の限りを行った。
「もう日本へは帰れない」、絶望した日本人家族が次々と自殺、私達一家も死ぬ練習を繰り返した。
日本への引き揚げが決まったのは1年後だったが、それは壮絶な旅であった。全ての財産はそのまま、千円払ってこれは日本に着いてからもらえる。父は副隊長になって引揚部隊の先頭に立った。母は前後に幼子をおぶい、私は持てる物すべてを持ち弟の手を引いた。10歳の私が父親代わりで叱咤激励していた。
何日間も歩き、たまに乗せられる汽車は木材や石炭を運ぶ無蓋車であった。時に機関手が勝手に止め金や女を求めた。雨の中を何時間も走り続け、子どもが振り落とされても全く無視。突然止まると皆競って用を足すために下車、すると今度は勝手に走り出す。「助けてくれ!」の声もそのままに多くの人々が深い森に取り残されて死んだ。
1ヶ月後、ようやく葫蘆島にたどり着いた。引き揚げ船は旧日本の艦船、輸送船、LST船と様々だが私たちは米軍の上陸用舟艇であった。
戸沢康之著「終わらない戦争」に、生き残った通信兵の体験談がある。
「引揚者の女性は犯されないようにザンギリ頭の丸坊主、顔にすすを塗っていた。ほとんどの人が栄養失調でやせ衰え、倒れる寸前であった。船から見ると突然隊列が乱れ死者が出たのが分かる。彼らは黙々と穴を掘って埋めていた。船に乗って息絶えた人は海に葬られたが、遺体は船が旋回するとしばらく追うようにしていた」。
ようやく長崎佐世保に上陸すると、大人たちは大地に頬をすりつけて泣いた。私も泣きながら「日本があって良かった、日本人でよかった」と強く思った。愛国心の芽生えはこの頃からである。
政治家になって50年、私はこの国の為に尽くしたと自負している。
戦後78年を経て、こうした状況を知る人は少なくなった。私は戦前、戦中、戦後を生き抜いた者として、この体験を伝える役目を負っていると思う。「語り部」として今回もその役目を果たしたのだ。
次の世代の人たちが日本の歩みを振り返り、この日本を立派に受け継いで欲しいと強く念じている昨今である。