第966回「日々多忙、至福の時」
深谷隆司の言いたい放題第966回
「日々多忙、至福の時」
5月25日は結婚記念日であった。27歳で区議会議員に当選、その翌年家内慶子と結婚した。実に59年の年月を数える。
結婚の翌年、都議会が汚職事件で解散、私は直ちに区議会議員を辞職し無所属で都議会議員に挑戦、わずか260票差の次点で敗れた。家内にとって結婚早々の浪人生活であった。
学習塾を開き家内と共に教え、糊口をしのいだものだが、その間、可愛い生徒たちに囲まれそれはそれで楽しい日々でもあった。
最高点で都議会議員になり、37歳の時念願の国会議員になった。5度の大臣、予算委員長はじめ各委員長、党の総務会長などを歴任し9期務めてお国の為に人生を捧げた。
しかし、実は決して順風満帆ではなく、何度も苦杯をなめる波乱万丈の日々でもあった。
ただ私の性格は挫折にあうほど強くなり、前途を悲観したことはない。明るく夢をもって進む、一貫してそのような人生を歩んで来た。それが出来たのは良き妻、素晴らしい子や孫が、更に理解ある友人たちがいたからである。
30日、TOKYO自民党政経塾の入学式があったが、実に18年目である。例年のように定員をオーバーし盛況である。
巣立った塾生は2600人余、政界は勿論各分野のリーダーとして活躍している。渋谷の温故知新塾でも教え、時には大学や企業から頼まれ講演している。月刊Hanadaでは連載を書き、時間があればこれらの為にパソコンを打っている。
間もなく88歳になろうとしている超老人だが、忙しい日々の暮らしだから元気一杯なのだ。
今が至福の時だから、更に頑張って生きようと改めて思っている。
第965回「祭りごと」
深谷隆司の言いたい放題第965回
「祭りごと」
あまり知られていないが、上代には、神を祭ることと政治とが一体で祭政一致であった。
広島で行われた主要国首脳会議(G7広島サミット)はまさに政治、一方、台東区で行われた祭が「三社祭」、期せずして規模こそ違うが、同じ週に政(まつりごと)が行われていた。
厳しい国際情勢に対処していくためG7の結束が今ほど求められている時はない。
世界のいかなる場所でも力による現状変更に強く反対し、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を堅持するという声明は正しい。
ウクライナに対し必要とされる限りの支援を約束したが、突然ゼレンスキー大統領も参加し各首脳と対談した。中でもロシアに融和的なインドのモディ首相と会談したことの成果は大きい。ゼレンスキーはさすが大した役者である。
各首脳は原爆資料館を視察し、「広島ビジョン」は核軍縮を促した。ただ核兵器不使用の機運を高めることはいいが、中国、ロシア、北朝鮮が核軍備を進めている現状を看過することは出来ない。こうした脅威には自国または同盟国の核兵器の備えで抑止するしかない。こうした点に触れなかったのは残念である。
いずれにしても日本が主催国になって世界的諸問題の解決のための会議を主導したことは嬉しい。岸田首相ご苦労様。
19日から3日間、浅草神社の三社祭が久しぶりに行われた。コロナで4年も開かれなかったから、宮出し宮入りは勿論、町中がにぎやかであった。
本社神輿の引継ぎは私の自宅前、こんなに多くの若者が勢ぞろいするのは盛観だ。彼らに「政(まつりごと)」にも大いに関心を持って欲しいものだ・・・。
この3日間、倅たちの仲間で我が家の応接間は占拠された。皆神輿を担ぎに来たのである。
最終日、町内神輿が自宅前で「させ、させ、」の音頭で高く持ち上げられる。我が家へ敬意を表してくれたのだが、嬉しかった。担ぎたいという衝動にかられたが、88歳間近、ここは自重するしかなかった。
かくて政(まつりごと)は終わり、又、静かで平凡な日々となった。
第964回「連休」
深谷隆司の言いたい放題第964回
「連休」
5月2日、倅の運転で久しぶりに箱根の山小屋に行き3泊した。この別荘は私が30年前に購入したものだ。当時は子供たちが年ごろで、よく使ってくれたが、今はほとんど使わない。
昔は近くに中曽根康弘先生の別荘があった。今は記念碑が立っている。私にとっては縁の深い思い出の場所だが、高齢で運転免許証も返納したからめったに行くことが出来なかった。
管理人費用や税金、温泉料など結構かかるので、いっそ売りに出そうとしたら、高値で申し込んできたのは中国人で、ここを民宿として使いたいと言う。勿論お断りした。
久しぶりにバーベキューを楽しみ、夜は孫が暖炉に見事に火を焚いてくれた。何とも心地よい場所だ。当分手放すまいと改めてそう思った。
箱根は学生駅伝で有名だが、箱根駅伝往路ゴール・復路スタート地点の目の前に「箱根駅伝ミュージアム」がある。
家内の父はこの駅伝を走っている。そんなことを話していたら、関係者が聞いて「すぐ探します」。
なんと義父「井上正孝」の名前が出場選手の記録として完全に残っていた。東京文理科大学(前は高等師範、のちの筑波大)の選手として第11回から14回まで連続4回出場、いずれも5区だから厳しい山登りのコースだ。
マラソンの父金栗四三氏は第5回ストックホルムオリンピックに出場、日本のマラソン選手を育てるため駅伝を考えた。義父は剣道部に所属していたが金栗氏にスカウトされて出場選手となった。
既に96歳で亡くなっているが、その直前まで玉川大学で剣道を教えていた。酔えば手拍子で豪放磊落に歌う。その勇姿を思い出す。やっぱり箱根には縁があると感慨無量であった。
ガラスの森美術館にも久しぶりに寄った。ここの館長さんがいい人で、著書を頂いたりもした。入口で「お元気ですか」と聞いたら、2年前にお亡くなりになったという。私より少し下だったのにと、自分の歳も考えて寂しい思いに駆られた。スタッフの対応は立派で、さすが従業員教育が徹底していると思った。
6日、孫の安希与が私の講演のパワーポイントをいつものように作ってくれた。夜は近所の店「Asari」で家族一同集まって12人の連休大宴会だ。
7日は銀座ブロッサムで6時から「しがくセミナー」の講演を行った。主催者室舘さんの希望でタイトルは「私の生涯」である。
満州事変、日中戦争、そして大東亜戦争と、私の生まれた前後はまさに戦乱の時代であった。
6歳から私が住んだハルピンは素晴らしい都市で、東洋と西洋の文化が混在する都だ。夏はスンガリーで泳ぎ、冬はスケートを楽しんだ。
1945年、日本が大東亜戦争で敗戦目前になるとソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破り宣戦布告した。戦車が轟音を立てて侵入し、日本人は天国から地獄に落とされた。略奪、暴行、強姦の限りを尽くし、更に65万人を超える日本人をシベリアに強制送還した。ここで亡くなった人は6万人を超える。
ソ連の暴挙は全てポツダム宣言違反であり、国際法違反である。ウクライナでの侵攻を見るとロシアの残虐性は変わらない。
1年後日本への引き揚げが始まったが、悲惨この上もない状況の連続であった。ようやく日本に上陸した時、大人たちは地面に頬をつけて泣いた。私も一緒に泣きながら、「日本という国があってよかった、日本人で良かった」と思った。愛国心の芽生えである。
「20代で区議会議員、30代で都議会議員、40代で国会議員、50代で大臣、そして60代で天下を握る」、丸裸のくせに膨大な政治家への道を描いたが、「天下を握る」を除いてほぼ実現した。在職25年表彰で私の肖像画は国会に飾られている。旭日大綬章の勲章を天皇陛下御自ら手交、ねぎらいのお言葉も頂いた。
長い私の変化にとんだ「生涯」を語る時、決して自慢話にならぬよう最大に気を使い、予定になかった落選で何年も浪人したことも赤裸々に語った。
オンラインを含めて千人を超える受講者たちはどう受け止めてくれただろうか・・・。
熱弁の1時間半が終わった時、私は崩れるような疲労感を覚えた。まだ肺炎入院の名残か、間もなく88歳、高齢の故か・・・。
終わって新橋の居酒屋でスタッフと共に痛飲、私はワインをしこたま飲んだ。その晩、異常な胸焼けと胃痛で苦しんだ。やっぱり歳、気を付けなければ・・・。
かくて私の連休は、それなりに楽しく、あわただしく、無事終わったのであった。