第669回「思うこと」

 深谷隆司の言いたい放題第669回

 「思うこと」


今日からサミットが始まる。主要7カ国の首脳が続々と伊勢志摩に集まったが、まさに壮観である。「世界経済の持続的な成長に貢献するメッセージを出したい」と安倍総理の意気込みが伝わってくる。こうしたスケールの大きな国際会議が日本で行われる、長く政治の場にいた私には格別な感慨、感動がある。

それにしても、こんな大事なときに、沖縄での元米兵による女性遺体遺棄事件が起こった。日米首脳会談で、「断固抗議」、「遺憾の意」と空しいやり取りが長時間あったようだが、せっかく来日したオバマ大統領の苦渋の表情を見ながら残念でならなかった。

早速、翁長沖縄県知事が大統領に直接会いたいと安倍総理に申し入れた。この男は相変わらず便乗宣伝好き、一地方首長が天下の大統領に会わせろなど、身の程も知らない、と腹が立った。

オバマ大統領は広島を訪れ核廃絶を誓うとのことだが、静かに粛々と迎えたいものである。


18日、久しぶりに中曽根先生に会いに行った。98歳、耳はかなり聞こえないが、威風堂々、穏やかな笑顔で迎えてくれた。記念写真の時、私の手を握って「深谷君の手は温かいね。若いんだね」と言われた。思えば私が27歳、区議会議員の時以来、実に50年余、ご指導を頂いた。売上税反対など、先生に反発してご迷惑をかけたことも多かったが、少しもこだわらずいつも優しかった。

帰途、車の中であれこれを思い浮かべ、涙がこぼれた。


25日、Tokyo 自民党政経塾入塾式が行われた。100人定員だが150人を越える盛況だ。11年目になるが毎年あふれるような塾生で、教えた数は1600人を越える。私と塾長代行の小田全宏君は最高のコンビと自負しているが、今年もまた張り切って若い人たちを育てていこうと思っている。


丁度この日が私たちの52回目の結婚記念日であった。塾生から祝いの花束を頂いて、直ちに家族の待つホテルニューオータニに直行した。8時と遅い宴だが相変わらず娘や孫、それに妹、秋田君夫妻らに囲まれてにぎやかだった。(隆介一家は別の日に予定)

それにしても波乱万丈の結婚生活であった。栄光の日々もあったが、落選浪人の時も長かった。しかし、私も家内も楽天的、前向きで、逆境に在った時もそれなりに愉快に過ごした。すばらしい家族、多くの友人達に囲まれて、こんな幸せな人生はない。皆のために、この国の為にも、まだまだ私の果たすべき仕事が山積している。ともかく家内と共に健康に留意して頑張って生きたいものである。



第668回「浅草三社祭」

 深谷隆司の言いたい放題第668回

 「浅草三社祭」


514日、15日、浅草は三社祭一色でにぎわった。雷門の自宅は倅や娘の友人達で満員、次々と繰り出しては神輿を担いで大騒ぎであった。

三社祭は44町会で構成され、それぞれに御酒所ができる。その全てに顔を出して挨拶するのが議員現職中の恒例であった。

はるか昔は軽自動車にお酒を積み込んで、各所にお酒を2本づつ届けたものだから、お金もかかって大仕事であった。

選挙に敗れて何年か浪人して、それでも元気な姿を見せようと神輿を担ぐと、周囲からやんやの喝采が上がり、「さすが下町の深谷」と、それが再起のきっかけになったりもした。

今年は自宅前で本社神輿の引継ぎが行われたが、千人を越える若者で大通りは埋まった。もう担ぐことは出来ないが、懐かしいあれこれを思い浮かべて感慨無量であった。


15日は、浅草花柳界の「組踊りを観賞する会」で、料亭「瓢庵」に、松村ご夫妻を誘って4人で顔を出した。

芸者衆が数人ずつ組になって、得意の出し物を作って各料亭を回って宴席で披露する。古くから伝わる粋な催しである。

久しぶりで、浦島太郎のような心地であったが、女将さんが喜んで、昔のように是非共乾杯の挨拶をして欲しいと乞われた。一言薀蓄をかたむけてから乾杯の音頭をとった。


推古天皇の時代、1350年も前だが、二人の漁師が隅田川で漁をしている時、観音像を釣り上げた。地元の文化人が如何に立派な観音様かと、自ら剃髪して自宅を寺とし崇敬した。(年代は少し怪しいが)

後にこの3人を神として祀る浅草神社が建立され、浅草寺と共に「観音祭」あるいは「浅草祭」と称して盛大な祭りが行われるようになった。明治になって神仏分離令が出されてからは、浅草神社が単独で行うようになり、これが今の「三社祭」なのである。


既にはるか前、柳橋料亭街が消えたが、浅草の花柳界も芸者衆がめっきり減った。組踊りもわずか3組、それでも日ごろ磨いている踊りはしっかりしていて見応えがあった。もっと多くの人に見せたいものだ。

一組は「太鼓もち」と言われる男衆の「幇間連」で、達者な芸が披露された。

私がまだ若い頃、悠玄帝玉介というテレビラジオで有名な幇間がいた。お座敷芸の第一人者で歌舞伎の声色などを得意にしていた。懐かしいそんな芸がまだ生きているのだ。今では数人しかいない幇間、「生きた化石」とからかうと、「世界で数人しか存在していません」と、得意になっていた。


せっかくだからと、浅草界隈をそぞろ歩き、浅草寺近くの「アリゾナ」にも立ち寄った。ここは永井荷風が好んで寄った洋食店、長年の私の応援者で、夫婦が大喜びで迎えてくれた。

浅草には何年経っても変わらぬ風情が残っている。着流しに半纏姿の私、下町ふるさとの浅草は、そんな私を優しくつつんでくれる。

今年も素敵な三社祭であった。



第667回「ゴールデン・ウィーク」

 深谷隆司の言いたい放題第667回

 「ゴールデン・ウィーク」


家族全員集合で箱根の山小屋で過ごした。

2日は箱根プリンスホテル「なだ万」で夕食、箱根に来ると必ず寄るが、ここの渡邊支配人、尾中料理長(今度、倅が勤める電通の店に移動)の人柄がいいのが一つの理由だ。私についての情報をいつも把握していて、この頃、オールド・パーに凝っていることまで知っていて、黙って出してくれたが、さすがと感心したものだ。味も気分も最高だった。

3日は日本画家の中野先生ご一家、和泉区議夫婦、美容院の二人、それに新人高橋さんも含めてバーベキュー大会。いつものように材料も揃えて来て、焼き手は小田原の大工岡井さんである。この人がいないとバーベキューは始まらない。

熊本・大分で苦労されている方々、亡くなった方への黙祷を捧げてスタート、幸い上天気に恵まれて大賑わいであった。

4日は箱根神社の宮司夫妻を招いて「アルベルゴ・バンブー」でイタリア料理を楽しむ。仙石原の小道を入ったこの店には昔よく行ったもので、当時馴染みの支配人がいて、私が着くと、すかさず「ゴットファーザー」の曲を流してくれたものだった。白い洋館、まさに映画そのもののたたずまいである。

山西支配人の対応も、味も雰囲気も変わらず良かった。


実はこの早朝、NHKテレビのニュースで、盟友佐藤信二氏の訃報が流れて、哀しい思いをしたばかりである。彼は佐藤栄作元総理の次男で1974年の参議院選に初出馬、私は責任者の一人として先頭に立って支えた。後に彼は衆議院に移り運輸相、通産相をつとめた気骨ある政治家であった。

ある時、「深谷さん、音羽の田中角栄さんが、子分衆に逃げられ心を痛めている。あなたが行けば喜ぶから激励に行ってくれないか」と連絡してきた。急いで田中邸に伺うと、上機嫌で迎え入れてくれ、様々な話で尽きなかった。

帰る時になってになって、「お帰りだぞ」と秘書に声をかけたが返事がない、烈火のごとく怒って秘書を怒鳴る田中先生の剣幕に、私の方がびっくりしたが、なんとその数日後に脳梗塞で倒れた。

今、石原慎太郎氏の著書「天才」がベストセラーだが、私にとっても沢山の想い出がある。いずれ機会があったら語りたい。

佐藤元総理が亡くなった時、私は遺骨を抱いて寛子夫人と共に築地本願寺に赴いた。その折に信二氏と共に記者会見したが、なんと、その時の場面がそのままNHK テレビのニュースで流れていた。あの頃、私も若かった・・・、感慨無量の思いであった。4歳上の84歳、とても寂しい。


5日、早めに箱根を出て帰路へ、連休の中間とあって、東名高速は流れがいい。倅隆介、嫁小百合の運転で2台の車に分乗し、ほぼ2時間半で帰宅、夜は又全員で近所の「味の一番」中華料理屋で賑やかであった。特に5人の孫がたまらなく可愛い。家族に囲まれることが最高の至福の時である。


明日からは、松村先生から依頼の150号の虎の絵に取り掛かる。同時に自民党政経塾、温故知新塾の講義文の作成も始める。パソコンを駆使しての作業は少ししんどいが、気がつくと何時も数時間が経ってしまう。

これからの日程を見ると連日会合が予定され、特に夜は満杯だ。いずれも愉快な人たちとの集まりばかりで楽しみである。毎日を大事に精一杯生きて行こうと、改めて思っている。



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